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旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

1年の終わりに思うこと:個人の境界と社会の境界について

2016年も今日で終わろうとしている。

特に何か感慨深いこともないし、何か変わったことがあったのかと振り返っても特に思い返すこともない。昔の人は元旦に年を取ることにしていたそうだが、それもそれでいいアイディアだとは思う。

結局のところ、過去や時間の流れなどは目に見えない。問題となり、結果となるのは今現在この瞬間だけだ。今が幸せであれば、きっと過去も幸せだったと思うし、未来も幸せだと思う。

人はよく「人に迷惑をかけないように」というが、人に迷惑をかけずに生きていくことなんて無理だ。生きているかぎり、すなわちなんらかその時点で迷惑をかけている。

今年、日本では不倫元年と言われ、芸能人の不倫がお茶の間を賑わし、有名歌手や元野球選手の薬物問題が大きく取り沙汰された。

彼らもその時その瞬間、「幸せ」になりたかったのだろうとは思う。結果、家族を失い社会的信用も失い、周りも被害を被ったかもしれない。でも、それも彼らの選択であり、その他多くの人には関係のないことだ。

日本の社会にはきっと「底意地の悪い悪意」があり、だからなんとなく閉塞感がはびこっている。他人の不幸を喜ぶ文化はそれほどお行儀がいいとは言えない。僕が暮らした中南米の国々は、たしかにすぐに人は殺されたりするし、盗みはあるし、宵越しの金は持たないし、社会的規範もあるとはいえない。

でも、なんとなく居心地よく5年近くも過ごしたのは、きっと彼らが「人は迷惑をかける生き物だし、生きているだけでなんだかラッキーだし、人は人に甘えるもの」という前提があるからだろう。

2017年も僕たちは芸能人たちの不倫が雑誌の表紙を飾り、また有名人たちの薬物問題が誌上を賑わす国に住まなければいけないのだろうか?

人はやはり過ちを繰り返すし、生きているかぎり他人に迷惑をかけ続けるだろう。そのことを再確認するためだけに、彼ら個人の人生が晒し首のようになるのは気の毒だとは思う。

メキシコ人は一度会っただけで「アミーゴ」となり、「今度日本に行くから会わないか?」と聞いてくるだけならまだしも、高級すし屋の予約まで頼んでくる。面倒くさい人たちだし、本当に迷惑だ。でも、僕たちよりも少しだけ幸せそうではある。

そういえば、コロンビア人が真顔で「日本には本当に引きこもりというのが存在するのか?」と聞いてきたことがある。コロンビアではアミーゴと家族に囲まれ、パーティーと音楽だらけだから、引きこもりなんて存在しえないからだろう。

個人と個人の境界が曖昧なラテンの世界では、引きこもる空間すらない。「村社会」と言われるように社会と個人の境界が曖昧な日本では、逆に個人間の境界が明確に引かれている。

2017年もきっと芸能人たちは乳繰り合い、有名人はドラッグに浮かれ、週刊文春は大忙しだろう。

でも、彼らは僕にとっては別にどうでもいい存在だし迷惑を被っていない。個人的には定期的にやってくる中南米からの友人知人たちのアテンドのほうが迷惑な話ではある。

そして、そんな自分もまた知らず知らずのうちに周りの人間に迷惑をかけているのだろう。そのことに自覚的ではあるので、せめてその分謙虚であろうとは思う。

2017年が皆様にとって良い年でありますように、そして遠慮せずに人に迷惑をかけてもいいので、その分その人たちにはやさしくありますように。(自戒を込めて)