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旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

死亡遊戯:オアハカにて

死者の日のためにオアハカに来た。

ここでは死者は両手を上げて迎い入れられ、3日間に渡って祝祭が繰り広げられる。死は畏怖すべきものではなく、受け入れられ、生活の一部となっている。この地では死はデフォルメされ、脚色され、どこかおかしな滑稽なものにすら見える。

昔は人はもっとよく死んだ。
戦争もあったし伝染病もよく流行り、また平均寿命は今の半分ぐらいだっただろう。だから、死は生活の一部となり、いつのまにか祝祭と化した。

子供の頃、祖父母の家に行くと毎朝、彼らがお経をあげているのがなんだかとても薄気味悪かった。その日本語とは思えない呪文のような文言は一体何を意味するのかも分からなかったし、仏壇には厳粛な雰囲気が漂っていたので、おいそれとそこで遊ぶことは憚れた。今でも仏壇を見ると、その頃の気持ちを思い出す。

日本ではそうして死は厳粛に受け止められ、厳かに静粛に執り行われる。死と戯れて、茶化すことなんてもってのほかだ。

でも実際は、死はそのへんに転がっている野良犬のようなもので珍しくもなく、運が悪ければ人はあっさりと死んでしまうし、運が良くてもどうせ人は死んでしまう。だから、むしろ死をおもちゃにして、戯画化したほうがより死を受け入れやすくできる。

人生なんて手っ取り早い話、「死までの長いプロセス」なわけだ。よほどの人ではない限り、かっこいい生き様を人々に焼き付けることなく、「なんだかあの爺さんボケたなーと思ったらポックリいっちゃった」という程度の印象しか、死んだ後には残さない。

多くの場合、他人の印象なんて、その程度しか残らないものだ。だからこそ、いつ来るか分からない死に怯えて暮らすよりは、死を身近に感じて戯れながら、生きていくほうがより楽しい人生となる。時々、過去の栄光にすがったり、現在の栄光にすがったりしている人がいるが、どちらも惨めなものだと思う。

いまこの瞬間を生きなければ、いつまでたっても人生に弄ばれる。今、この瞬間をどう更新するかということにしか人生には意味はない。その先にある未来は未来の自分に任せればいいと思う。

メキシコの人々は、意味も分からず死んでいく人たちに対して、「死を茶化す」ことによって、その奥に秘められた残酷性とどうしようもない絶望を包み隠そうとしたのかもしれない。死と踊り、戯れないとやる切れない悲しみがそこにはあったのかもしれない。

人生では、嘆き悲しむよりも笑ってすますほうが大変な労力を必要とする。彼らは祝祭という形を通して、そうしてすべてを笑ってすませようとしたのかもしれない。そうでもしないとむやみに死んでいく人々に対しての気持ちの整理がつかなかったのだろう。

死と友達になることなんてできやしないが、その時が来るまで、なるべく笑って過ごしたいと心から願う。