Keep My Word

旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

2013年の真夏のブエノスアイレスにて

半年ぶりにブエノスアイレスへと帰ってきた。
見知った風景、それに人々。


2年も住んだので、よく知っている風景だが、どこか違和感がある。それは自分が知っているこの街は、半年前から更新されていなかったからだろう。この街にもこの街の人々にも、同様に半年という月日が流れ、外見上は全く同じように見えても、やはりそれはどこか違う。

半年という月の流れが、薄皮のヴエールのようにブエノスアイレスを覆っている。この街に住んでいるときは滞在者だったが、今はきっとこの街にとっては漂泊者といったほうが正しい。


「いつかはまたいなくなる」・・・・きっとそのようにみんなに認識されているのだろう。


住んではいないという感覚はどこか心地が良いのも事実だ。どんなことが起こっても、また自分は違う街へと旅立つ。ただ、それと同時に少しさびしい気持ちもある。自分が目指したのは、どっぷりとその土地に浸かり、その土地の人々に埋もれ、その国の言葉を話すことだ。2年という月日でそれはある程度、達成したとは思う。

だが、それでもほんの少しのこの距離感がもどかしい。

ブエノスアイレスに何かしら特別な感情があるのは、別にこの街で初めて自分の家を買っただけではない。なにかきっとそこには無視できない思い入れがあるからだとは思う。そして、苦労して自分のホームを手に入れたことで、この関係はさらに強固のものとなった気がする。

ブエノスアイレスに家を買う・・・・正直、馬鹿げていることだと思う。全財産をはたき、借金までし、それに複雑で怪奇な手続きを踏み、ようやくマンションの契約は1年半がかりで完了した。それに値する買い物をしたのか、今でも疑問に思う。金銭的な面を考えれば、得することはないのではとすでに割り切っている。

ただ、ひとつ思うのは、この街に家があることによって、ブエノスアイレスの人々はきっと僕が再びここに戻ってくることを確信して待ってくれるのではと思う。もちろん、自分の思い込みを多分にあるとは思う。それでも、この街に家があるのと、ないのとでは人々の関係性の重みが違ってくる。

そこまでして、この街や人々に近づく意味はあるのか。

それは今でもよく分からない。しかし、ひとつ言えるのはこれが自分のやり方だし、生き方だ。やると思ったら、とことんやる。毎日、スペイン語の勉強に明け暮れ、タンゴを踊り、マテを飲み、アルゼンチン産の肉を食らう。そして、挙句の果てに家まで買う。アルゼンチン人よりもアルゼンチンに詳しくなる努力はする。だからといって、別にアルゼンチン人になりたいわけでもなんでもない。

それがその土地に生きるという自分なりの矜持だ。

アルゼンチンでは、不動産の購入はすべて現金払いだ。しかし、ドル規制があり、建前上ドルは国内に持ち込めないことになっている。それをあの手この手で回避し、とあるプライベートバンクの香港の隠し口座に入金すれば、ブエノスアイレスでキャッシュでドルを下ろせる仕組みを利用した。

そんな映画さながらのオペレーションを経て、外国人はこの土地に家を買う。なかなかエキサイティングな話だ。それに支払いも当然、現金なので治安がすこぶる悪いこの街で1000万円強の金を持って、この街を徘徊して支払いを済まさなければいけない。

やはりどこか馬鹿げた話だ。

2001年に財政破綻したこの国に全財産どころか借金までして、土地を買うのは正気の沙汰ではないとは思う。そこに短期的なメリットを見出すのは難しい。しかも、今はこの国に住むつもりもない。あくまで漂泊者であり、たまに来る旅人だ。

それでも、いいのではないかと思う。全財産をはたいて、学ぶこともある。お金に執着心はないが、もっと金があれば、行く土地土地で家を買って、各国を転々とする生き方もいいのではと夢想している。それが仕事のモチベーションにもなる。

これから沈むゆく借金苦の日本に全財産どころか30年ローンを組んで自分の人生を縛るよりは、ある意味夢のある生き方ではないだろうか。メキシコ、フィリピンなどこれからどんどん伸びる国に家があれば、長い目で見れば、リスクヘッジにもなる。 
(ただどう考えても、アルゼンチンに家を買うことはリスクヘッジにはならないとは思う)

人生は賭けの連続だ。
常にどこかで自分の人生を賭けなければいけない。

どこで、誰に、何に、人生を賭けるのか。
少しづづ賭け金を増やし、頃合いを見計らって賭けていく。賭け金が上がれば上がるほど、人生はエキサイティングになる。

失敗は成功のもとというが、本当は小さな成功こそが大きな成功のもとだ。
最初は賭け金を少なくして少しつづ儲けて、余裕が出来れば大きな賭けをする・・・・全財産を失わない程度に。

金はなくなるが、土地はなくならない。
どんなことがあっても、この地球の裏側には居心地のいいホームがある。そう考えれば、この賭けはあながち間違っていなかったかもしれない。

10年後、今のように笑ってこの年に起こったことを振り返っていたい。
そのために今日があり、また明日がある。

そうして、今日が未来へと繋がっていくのだろう。