Keep My Word

旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

必死な自分を軽蔑すること

知らない町の知らない場所で迷子になった。
仕方がないので、人に道を訊ねた。

一人目と二人目はまったく間違った道を、とても親切に教えてくれた。
三人目はガードマンのおじさんだったが、ぶっきらぼうに正しい道を教えてくれた。

間違った道を教えてくれた二人は、別に教えてくれなくてもよかったのに、わざわざ間違った道を教えてくれた。知らないことを「知らない」と答えるのは、非常に勇気がいる行為なのかもしれない。

僕はすぐに彼らがどうやら本当はそんな場所を知らないことを感じたが、とくに何も言わなかった。二人目の人がまったく逆の方向だと教えてくれたので、ガードマンが正しい道を教えてくれたときにまた来た道を戻らなくてはならず、気まずいので彼女の前を通り過ぎるときに顔を覆い隠したぐらいだ。

親切にも間違った道を教えてくれた人たちに共通していたことは、どちらも必死だったことだ。

おそらくもう二度と会うこともない赤の他人にそんなに必死になるぐらいだから、自分が普段から接している人たちに対してはものすごく必死に色々と世話を焼いているのだろう。

人生において必死にならざるを得ないときはあるにはあるが、その「必死さ」が物事の真実を覆い隠してしまうことのほうが多い。

自分が必死に努力しているからといって、何もそれが正しいとは限らないのだ。
悪徳政治家は必死に悪事を隠そうとするし、罪人も必死に罪を隠そうとする。
つまり「必死さ」の価値なんてその程度のものだ。

僕は必死な自分を軽蔑するように自分自身を特訓している。
そもそも必死にならざるを得ない状況に自分を置くこと自体が間違っている。それは事前の準備不足が原因だったり、自分には全くそぐわないことだったりを「必死さ」でそれこそ必死に覆い隠そうとしている。

急に必死になっても、それはすでに多くの場合は手遅れだ。そういう状況に陥ったら、「必死さ」を必要としない状況まで立ち返ることが必要なのだろう。
来た道を潔く引き返すことが、多くの場合前進することに繋がる。

世の中は、必死さをとかく美化し強調しようとする。
必死に短所を矯正するよりは、自分の長所を生かせるところに身を置いたほうが賢明だし、それに本当の意味で努力をしている人は、とても軽やかで楽しそうだ。「必死さ」の面影すらない。

完璧な人間になりたいなんて露ほども思わないが、軽やかな人でありたいとは常に思っている。