Keep My Word

旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

イグアスへの旅路

リオの空港に着いてみると、様子がおかしいことに気がついた。
空港にあるすべての時計の針が1時間進んでいるのだ。

イグアスに行くためには、サルバドールからリオに向い、そこで飛行機を乗り換えることになっていた。僕の飛行機はリオを10時30分に発つ予定だったが、リオの時計はどれもすでに10時40分を指している。つい先ほどサルバドールからリオに到着したばかりだというのに、これは一体どうしたことなのだろう?目の錯覚でもない限りどちらかが間違っていることになる。

リオの空港の時計すべてが1時間進んでいる可能性は非常に低いので、どうやら僕が間違っているらしい。だが、僕はサルバドール発イグアス行きのフライトをオンライン予約したが、途中の乗り継ぎの便は自動的に予約され、なにも指定していない。それにプリントアウトしたフライト情報には、はっきりとリオの到着時間は9時20分と明記されている。

ブラジルのオンライン予約は、きっと時差を考慮に入れないのだろう。ブラジルではパソコンですら、時差ぼけするのだから、そこに住んでいる人々が、少々度が過ぎても仕方がないのかもしれない。
(そもそもたいした距離ではないのに、サルバドールとリオに時差があるのがいけない)

GOLの係りの人を見つけて、早速チケットの手配をお願いする。
応対に出た女の人がチェックインカウンターの責任者を呼んでくれた。その男の人は以前にも面識のある人だった。

リオの空港では三脚が一切持ち込み禁止になっており、リオからサルバドールに向かうときにこの大柄なウィリントンという名札をつけた男の人にお世話になったのだった。そもそも成田でも、経由したNYの空港でも、そのほかのブラジルの空港でも三脚の機内持ち込みは認められたが、ここリオだけは認めてもらえなかった。
(セキュリティチェックではかなりもめたが、彼のところに連れて行かれて、なんとなく安心できる人だったので、その処理を任せた。そのおかげで三脚は無事サルバドールに運ばれた)

彼は自分では英語はたいして話せないと言ったが、こちらの意図はすんなり汲み取ってくれるので、コミュニケーションが取りやすかった。今回も身振り手振りで説明して、彼は「オーケー」と言ってチェックインカウンターのなかにある小部屋に引っ込んだ。5分ほどして出てくると、手には新しい搭乗券が握られており、それには11時発と書かれている。時計を見ると、すでに11時を少し過ぎているが、彼は「ノープロブレム」と言ってチケットを渡してくれた。

慌ててセキュリティチェックを通り、ゲートに向かうとまだボーディングは始まってもいなかった。確かに「ノープロブレム」だった。

ブラジルではこんなことは日常茶飯事なのか、みんな親切かつ迅速に対応してくれる。インドやほかの国では、同じようなことが起っても「絶対に自分は間違っていない」という態度を崩さず追加料金などが発生するのが当たり前だが、ブラジルでは気持ちがいいくらい臨機応変に対応してくれる。
(そもそもパソコンが時差ぼけを起こすのが問題なのだから、ブラジルの美点とまでは言えないかもしれない。それに資本主義に毒された人間にとっては、時差ぼけをするオンライン予約システムは耐え難い産物に映るかもしれない)

早朝の便に乗るために朝の3時に起きて、結局イグアスに着いたのは昼の2時を回った頃だった。空港からはタクシーに乗り、ガイドブックに載っていたホテルで下ろしてもらってチェックインを済ますと、シャワーを浴びて仮眠を取った。

Brazil

1時間ほど経って起きて階下にあるロビーに下りていくと、日本人らしい女性が一人でソファに座っていた。珍しいなと思い声をかけてみる。やはり日本人だった。彼女は海外の旅行会社主催の南米周遊45日間ツアーに参加しているのだという。海外の旅行会社主催のツアーに参加しているくらいなので、てっきり留学生か何かだと思ったが、違うらしい。佐賀県在住だが、日本の旅行会社主催のツアーでは満足できるツアーがなかったので、日本の会社を通してわざわざ海外の旅行会社主催のツアーに申し込んだとのことだった。
(日本からの参加は、彼女一人だけらしい。そんなもの好きはさすがに日本にもほかにいなかったみたいだ。しかも彼女はとんど英語を話せないとのことだった。とくに同室になったイギリス人の女の子の英語は全く聞き取れないらしい)

ある意味、ツワモノだ。
彼女が参加しているツアーは冒険型ツアーらしく、かなりエキサイティングなところに行って、色々と経験させてくれるとのことだ。彼女はそういうことを純粋に楽しんでいるみたいだった。

人にとって冒険の定義は様々だが、少なくても自分にとっては、一人であるということが絶対条件だ。そして、その状況のなかで色々な人と知り合い、言葉が通じない不便さや時差ぼけするパソコンに悩まされながら困難に打ち勝つのが、僕にとっての冒険だ。

マチュピチュイグアスの滝を見に、言葉が通じないその他大勢の人々と一緒に過ごすのは冒険というよりは、拷問に近い。本人が楽しければそれはそれでいいのだが、つい自分と彼女の立場を置き換えて考えてしまう。同じ国から地球の反対側にある国に来ても、その国に来た目的がこうも違うものかと感心させられてしまう。イグアスの滝マチュピチュは僕にとってはただの記号にしか過ぎず、それ自体はなんの意味を持たない言葉だ。だけど、彼女にとってはそれは記号なんてものではなく、彼女の冒険を象徴する重要なキーワードなのだろう。

僕にとって意味があるものは、すでにあるものや語り尽くされたものではなく、自分だけにしか経験しえないことだ。そして、それをなるべく分かりやすい形に変えて、人に伝えることができたらと願う。マチュピチュやイグアスという記号は、もうその単語だけで十分に意味を為してしまい、それ自体に関して語ることはない。

究極的には、なにかを経験するためにどこかへ行く必要はない。周りの人間からニートと蔑まれながらも部屋に閉じこもり、「世界の素晴らしさ」を伝えられるくらい豊かな人間だったらわざわざ外に出る必要もないかもしれないが、そんな人はいない。(歴史上の人物でそれを試みた人間はたいてい発狂するか、のたれ死んでいる)

そういったことを考えていくとお金や責任、礼儀などという日常生活を支配している記号から逃れて、つかの間の休息とその日常生活を支配する記号以外の目的をおぼろげに感じるには、旅という妥協はいい選択だ。

彼女も僕も表面的には求めているものは違っても、本質的には似たようなものを求めているのかもしれない。彼女はマチュピチュやイグアスという記号に反応し、僕は出会いや旅先で過ごす時間そのものに反応する。どちらも日常生活を支配している記号から逃れたいと願い、つかの間の冒険を楽しみたいと願っている。どちらがより本質に迫っていけるかは、自分たちの日常生活をその経験を通していかに豊かにできるかということにかかっている。

佐賀県の女性は、その日の夜行列車に乗るということで足早に去っていったが、少なくても僕にとっては色々と考えさせられるいい出会いだった。
(彼女の名前も職業も聞かなかったが、縁があればまたどこかで会うことだろう)

明日はイグアスだ。
たまには世界にその名を轟かせている記号を見に行くのも悪くない。
それにそれがただの記号で終わってしまうのか、それとも意味を為すものにできるかは結局のところ自分自身にかかっている。