Keep My Word

旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

最後の夜

朝九時くらいに、ホテルをチェックアウトするために階下へと降りていった。今日はいよいよ旅の最終地サンパウロへ向かう日だ。最初に降り立ってから二週間強しか経っていないが、もうすでに随分長い間ブラジルに滞在している気がする。

チェックアウトの手続きをしていると昨日一緒にイグアスの滝を巡ったスイス人カップルがやってきた。彼らも今からブラジル側のイグアスに行くというので、一緒に行くことにした。ドイツ系スイス人の彼らは、ご多分に漏れずお堅い感じがしたが話してみると非常に気さくで、とくにダニエルはセネガルインドネシアで建設を請け負う会社に勤めているだけいって見識があり、話していて楽しい人だった。

人はとかく見かけによらないものだ。

昨日のシルビアたちも学者然としたところがなく、また自分の気持ちを素直に表現できるコミュニケーション術を心得た人たちだった。日本にいると、そういったことを磨く機会が彼らと比べると圧倒的に少ないような気がする。同じ言語を話し、建前は同じ価値観を共有し、そして表面的には同じだと思われる目的のために生きている。誰も腹を割った話をしようとしないし、わざわざ親しい人にそんなことを打ち明けるのはどこか気恥ずかしい気がする。

Brazil

いつしか自分もそんな周りの環境に馴染んでいる。

シルビアはロマンティックという言葉とはほかに、英語で「In the bigger picture」という表現をよく使った。日本語に訳すと、「大局的に」あるいは「全体を考えて」ということになるのかもしれないが、そういう表現を使って物事を表現する機会も、出会いも最近なかったことに気が付いた。

「お金が欲しい」とか「成功したい」など個人の願望や欲望を表現する言葉や常日頃聞いているが、自分の耳にはほかの人あるいはコミュニティ全体を考えて思いやる言葉は入ってこないし、発せられたことも最近なかった気がする。

突き詰めて考えていくと個人的には打撃を蒙っても、全体を考えれば満足な結果が得られればいいのだろうか?

最初から結果を諦めて、全体の成果ばかり考えると何もできなくなるが、自分のできることは精一杯やって、それが大局的に見れば全体に役立つことはたくさんあるような気がする。全体のバランスを考えれば、余計な競争や嫉妬心、それに野心などもなくなるだろう。

人は納まるところに納まり、自分の居場所でできるかぎりのことをすべきだと思う。

その点、ダニエルは仕事で満足している人から放たれるオーラをぷんぷんさせている人だった。もちろん、第三諸国の救助とは名ばかりで、きな臭い話はたくさんあるらしい。他国への救助も、入札になることが多く、多くの場合豊富な資金を持っているアメリカが勝つのだという。スマトラ地震のときも彼はインドネシアまで飛び、救援物資の手配などに当たったらしいが、そういった政治的な思惑が立ちはだかり、苦労したらしい。

本当に助けを必要としている人を前にしても、人間は余計なプライドや競争心が働くのだから、日常生活においてそういったことが介入してくるのは当然のことといえる。ダニエルはそれでも仕事にやりがいを感じ、西洋文明の価値観が通用しない日常を満喫しているのだろう。

Brazil

アルゼンチン側から見えるイグアスに比べると、ブラジル側のそれは見劣りはしたが、がっかりするほどの景色でもなく、一日の半分を費やす価値は十分にあった。ダニエルたちも夕方のバスでクラチーバに向かうとのことだった。

滝はもう見尽くしたので、カフェでビールでも飲もうということになり、日陰を見つけて僕たちは腰を落ち着けた。ダニエルは映画好きだったので日本の映画の話になり、「北野武は最近新作を撮っていないようだが、映画はもう作らないのか?」とか、「ロスト・イン・トランスレーションでの日本人の描き方は日本人を少し馬鹿にしていないか?」などと聞いてきた。

北野武は何本か撮っているが、以前ほどのクオリティではないことや、ロスト・イン・トランスレーションの日本人の描き方は、映画表現の手法としてそれなりに有効だと思うと伝えた。
(何事も極端に表現したほうが伝わりやすい。たとえばモンティ・パイソンではスコットランド人はずんぐりむっくりの赤ら顔で、アイルランド人はギネスばかり飲んでいるカソリック教徒ばかりというように)

Brazil

僕たちは仲良く一杯ずつ飲んで、帰路についた。ビールはダニエルが奢ってくれた。僕の飛行機は三時発だったので、それほど時間的余裕なかったが、今からホテルに荷物を取りに帰ってタクシーを飛ばせばなんとか間に合う時間だった。

ダニエルは僕がてっきりこのまま直接空港へ向かうのだと勘違いしていたらしく、長々と映画の話をしていたらしい。もうそれほど時間的余裕がないと気づいたダニエルは「本当にすまない。勘違いをしていた」といって駆け足になり、ホテルに向かうバスの時刻を聞きにいってくれた。やはり彼は時間に厳格なスイス人なのだなと僕はのんきに感心していた。

ここまで色々なことが起きると、飛行機のひとつはふたつ乗り過ごしても、ささいなことに思えたし、サンパウロまでたいした距離ではないので、乗り過ごしたところで、いくらでもたどり着く方法はありそうだった。

結局、バスには乗らずにタクシーをホテルまで飛ばして荷物を取りに行き、ダニエルとはホテルで別れて、再会を約束した。

ダニエルたちが住むジュネーブにはミハエル・シューマッハなど世界的な有名人がたくさん住んでいるので、そういう人たちのポートレート写真を撮りに来ればいいよと言ってくれた。

空港へは出発10分前に着いたが、飛行機の出発は予定より30分遅れるとのことだったので、なんの問題もなかった。ブラジルではこんなことは日常茶飯事だから、もうなんの感慨も受けなかった。

サンパウロへ無事着くと、着いた日に泊まったホテルにまたチェックインをした。結局、回りまわって出発地点に帰って来たわけだ。明日帰国すると思うと、少し寂しい気もしたが、あと一週間いろと言われたら、正直ごめんだ。また来たいという気持ちはあったが、今回の旅は思い出満載で、これ以上のハプニングは避けたかった。

Brazil, 最後の夜

サンパウロの闇はどこまでも深く、危険な香りと人々の物語が渦巻いていたが、今夜はホテルの周りをうろうろと散歩するだけにとどめた。最後の夜くらいは静かに過ごしたかった。ブラジルではこちらから何も求めていなくてもハプニングは向こうからやってくる。今夜くらいはサンパウロの闇に紛れて、息を潜めて通りから聞こえてくる喧騒に耳を傾けながら、今までの旅の思い出に浸るのも悪くはない。