Keep My Word

旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

スロー・ライフ

あらゆる物語は語り尽くされている。
その通りだと思う。

最近、旅関係の本をよく読む。
それらのなかに著者がアフリカを旅して、その国の人と恋に落ちて、でも結局は互いの環境の違いを克服は出来ないだろうと判断して、その恋をあきらめるという本を読んだ。

なんだかどうでもいい話である。
僕はよその国のことをよりよく知りたいという知的好奇心で、その本を買った。
それなのに、対して興味のない著者自身の恋愛物語が延々と語られているのだ。

たぶん見当違いをした僕が悪かったのだろう。
ただ、正直な僕の感想を言えば語るに値しない物語をわざわざ本という形にする意味が理解できない。
本人にとっては、素晴らしい経験だったとは思う。
気をつけなければいけないのは、それが第三者に向けても発信するに値する物語かどうかということだ。

稀有な経験をした人ほど、物語を語るにあたって過ちを犯しやすい。
なぜなら、彼らは自分たちが他の人間がなし得ないことをなし得たという慢心があるからだ。

大方の伝記のほうが自伝よりも、面白い読み物になるのはそういったことに関係するのかもしれない。

ノンフィクションの世界では、上記のようなことが起こりがちだ。
フィクションの世界では、ノンフィクションで語られる終着から語られることが多い。

たとえば、その著者がアフリカの人と本当に日本に帰って結婚し、生活したら面白い話になったかもしれない。僕たちの興味は平凡な現実的な判断を下す人間よりも、そういった非現実的な判断を下した人間に傾く。ノンフィクションの世界だとそういったやり方は体がいくつあっても足りないが、フィクションの世界はあくまで自由だ。

肝心なのは、どんな物語でも形を変えてすでに語られているということを自覚することだと思う。それでも、語ろうする人はそれだけのものを備えているはずだ。そうでなくては読み手に失礼になる。
前回紹介した沢木耕太郎は「深夜特急」を書くのに、10年近くも経験を熟成させた。その過程で伝えるに値すると思ったものだけが残り、多くの人の共感を呼ぶことができたのだろう。

語ることがないのは別に恥ずかしいことではない。
でも、語ることがないのに語ろうとするのは自らの恥をさらすことになる。
誰もが主張する必要もないし、正しい必要もない。
僕たちは僕たちなりのペースで生きて、可能性を追求していけばいいのだ。
その過程で他者に語るに値する物語があれば、語ればいい。

焦らなくてもいい。
あらゆる物語は語り尽くされているのだから。