Keep My Word

旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

Time, Travel, Morocco(4)

なぜそもそもモロッコだったのか? 同じようにモロッコを旅した友人と共に、色々と考えを巡らしてみた。

べつにチベットでもベトナムでもラオスでも、どこでもよかったはずだ。 ただ刺激が欲しかっただけなのかもしれない。 でも、やはりモロッコでなくてはならない気がする。

人は伊達や酔狂で、二十時間以上もかけて異国へと赴かない。 なにかしらの予感、あるいは確信めいたものがあるはずだ。 結論から言えば、自分にとってモロッコとは砂漠であり、その青い空であり、写真を構成するにあたって必要なものを提供してくれたかけがえのない国だった。 僕の中にはモロッコに行く前にモロッコ的なイメージが頭のなかに出来上がっており、それを実際にこの手で作り上げたかったのかもしれない。

今回の旅では僕のなかでは定番となっているポートレート写真を一枚も撮らなかった。 それは自分の中ではモロッコ的ではなかったからだ。

「ものとは、ひとの眺めるその眺めかたに従って存在する」とオスカー・ワイルドは書いている。 人は自分なりの現実を知らず知らずのうちに作り上げている。

現実とは、各人の見方によって存在しているといっても過言ではない。

表現者とは、きっと自分の現実をほかの人と共有したいと思っている人種のことだ。自分が見ているこの素晴らしい世界を心底共有したいと思っている人々が、芸術家と呼ばれる人々だと思う。

モロッコから帰ってきて、自分が撮った写真を多くの人に見せた。 たいていの人の感想は、「本当にこれが現実なの?」とか「砂漠に字を書いたのは、やらせ?」とか様々な意見が出た。 個人的な意見で言えば、べつにやらせでも何でもいいのだと思う。 それが最初からきちんとした意図を持って撮影されたものであれば、作品と言えるのではないだろうか?

でも僕が実際に撮った写真は、特殊加工などしていないし、やらせなど一切ない。 ただ目の前にある僕の現実を切り取っただけだ。

たまたま撮れたといえる写真ばかりだ。 だが、そのたまたまは一瞬しかない。 それだけのことだ。

Morocco, desert

自分自身の未熟さは人から指摘される前にわかっているけど、自分にとって当たり前に見えているものが、ほかの人には見えていないことがあると自覚することはとてもためになる。 そして、それは別に自分が特別とかそういうことではなく、きっと皆がお互い無自覚に共有している現実というものが、じつは本当は絶対的なものではなく、解釈次第でどうとでもなるということに他ならない。

お互いに自分たちの現実を共有もせずに生きていくこともある。 誰もがほかの人間が見ている現実を見ることはできないからだ。 だが感じ取ることはできる。

もっと混ざり合って、感じ合っていくうちにいつしか自分が満足いくような作品が生まれるのかもしれない。

つづく