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旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

デジタル遊戯:情報の海を泳ぎ切るために

最近、人類の歴史について考えることがある。そのようなことを考えるといかに自分が矮小な存在であるかに思い当たる。

歴史の重み、歴史のうねりというものを生まれて初めて実感したのはトルストイの「戦争と平和」を読んだときだろうか。その本のあまりのインパクトに胸が熱くなった記憶は今でもとてもビビットに思い出される。

青春時代の自分にとって、本は永遠の象徴であり、自分の名前や存在を少しでも残しておこうとしたら、作家になるのが一番の早道に思えた。それから時は流れ、あらゆることは電子化され、本も例外ではなく、電子書籍というものが近頃では世間を賑わせている。別にそれについて感慨深くなることはないが、自分自身の存在を統計上の数字ではなく、きっちりとした形で残そうとした場合、今はどのようなメディアが適しているのだろうかと考えてみた。

つらつらとブログを書いてはいるが、どこかのサーバーが吹っ飛べばそれは跡形もなく消えてしまう。そして、それはデジタル化されたあらゆるものに当てはまる。写真、本、音楽、動画などはどこかのサーバー上に保存されており、それ自体が吹っ飛んでしまえば、我々に残されたものは何もなくなってしまう。

今ではクラウドサービスを利用して、自分のパソコンにデータを保存するよりは、GoogleドキュメントやDropboxといったサービスを利用して、サーバー上に保存することが当たり前になりつつある。誰もそれらがなくなってしまう可能性については、考えてはいない。

そして、人間関係ですらデジタル化され、ソーシャルメディア(ブログ、ツイッターSNS)などを通じて、人と人が繋がるようになった。デジタル化されるということは、あらゆるものが広く浸透することにはなるが、物事を希薄化することにも通じる。

戦争と平和」で描かれたような密度の濃いドラマが世界のどこかで繰り広げられているのだろうか。人と人とのあいだにデジタルが介在したとき、その関係性そのものに変化はないのだろうか。

すべてのものが手軽に手に入るようになったことと引き換えに、濃密ななにかを少しづつ失いつつあるのではと思う。10数年前に永遠と思われた本や映画がどんどん時代遅れになり、消費されていってしまう。あまりにも情報が増え、何が永続性があるかなんて誰も注意を払おうとしない。

時の流れが早まったから、消費のスピードも加速度的に早まったのだろうか。そうは思わない。ただ無駄なことや無意味なものが氾濫しているから、本当に価値のあるものがそのなかに埋もれつつあるのではないだろうか。人類の歴史とは、常に発展の歴史でもある。だが、テクノロジーの進化が、物事の価値を著しく貶めることもあるのだとそろそろ自覚する必要がある。

世の中の価値のあるすべてのものは濃密であり、その凝縮されたエネルギーが人々を圧倒する。これからデジタル化が進まるにつれ、教養なんてものはなくなり、誰もが自分自身が主体となって発信するだろう。そして、いくばくかの名声を手に入れ、悦に入るかも知れない。だが、その名声はアンディ・ウォーホルが予言したように十五分しか続かない。僕たちの時代にトルストイが残したような人類の遺産と言えるべきものは残せるのだろうか。

もちろん、最後は歴史が証明してくれるだろうが、その歴史すらもデジタル化され、均一化される怖れがある。これからは冷静にもっと物事の価値に目を配る必要がある。アナログでもデジタルでも眼に見えるものはすべては嘘をつき、目に見えないものにこそ本当の価値が内包されている。それを選別する能力を身につけないと、いつまで経っても情報の氾濫のなかでもがき続けるだけだろう。