ブエノスアイレスからメキシコ・シティへと戻ってきた。 ブエノスアイレスに居た頃は、毎日タンゴのクラスに通い、タンゴを踊っていた。
「タンゴのことそんなに好きなの?」「タンゴのためにブエノスアイレスに2年も住んだの?」
そういうことをよく訊かれる。 タンゴを習い始めて、2年が過ぎるまではタンゴが楽しいと思ったことはなかった。ただひたすら自分の中にないものを取り入れたいばかりに、多くの時間を費やした。リズム感や音楽のセンスなんてまるっきりなかった。
それでも運動能力は人よりもあるので、それさえ身に付ければ他の人よりも上達のスピードが格段にあがった。
もちろん、そうなるために2年もの歳月を費やしたわけだが、その甲斐はあったと思っている。
なにかを本当に楽しむためには、それなりの習練と時間、それに伴う忍耐と経験が必要だ。語学にもそれが言える。
スペイン語の勉強は最初のころはひたすら辛かっただけだが、それを2年も続けたおかげで、今はスペイン語で不自由なくコミュニケーションを取ることが出来るし、それがとても楽しい、
人生、何も本当に学んだ経験がない人は、人生を楽しむことが出来ないのではないだろうか。享楽的な人生を送るアルゼンチン人たちを見ていると、そう思う。
彼らは今現在の責任は他者に転嫁し、自分たちの能力を向上させる努力をしない。 仕事でもスポーツでもタンゴでもなんでも、彼らは驚くほど自分たちに満足するレベルが低い。
もちろん、どの分野でも一流の人たちはいる。でもその下に位置する人たちがいない。いきなり三流か四流の人たちになってしまう。
日本のような国とはそこが一番違うのかもしれない。
あくことなき向上心と、自分の仕事に対する要求と他者から要求が強すぎて、先進国でも非常に高い自殺率を誇る国になってしまった日本。
仕事とは、決まった時間をなるべくなにもしないで済むように努力することであるアルゼンチン。
国としては一長一短がある。 だが、個人の人生としてはある程度、自分を追い込んで、能力を引き上げるための努力をしないと人生の本当の醍醐味を味わうことは出来ない。
村上春樹の小説には、よく「掘る」という表現が使われる。自分の小説を語るときにも彼はそのように語る。彼は毎日自分と向き合い、ひたすら自分を掘り続けて、世界中の人を感動させるような小説を生み出している。
人生の深度は深ければ深いほど、その喜びも大きくなる。多くの物語が悲劇や死を題材にするのも、それと関係しているのだろう。死を前にしないと生に歓喜なしというやつだ。
どこまで掘り続ければ満足するのだろうか。
そもそも本当に生きている間に人は満足することがあるのだろうか。
一流と言われる人たちは常にそのことを自問自答して、毎日戦っているのだろう。 今更、一流のタンゴダンサーになれるとは思っていないが、せめて死ぬまでには一流の人間の仲間入りはしたいと思っている。