Keep My Word

旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

哲学的に見る「人を喜ばせる術」:プレンゼントをあげるということ。

たしかフランスの哲学者ラカンだったと思うが、「人に何かをプレンゼントするときは、それが実際には役に立たない無用なものであればあるほど、実際の価値は高まる」と書いていた。分かりやすく説明すると、人に何かあげるときに生活必需品(米、トイレットペーパー、箸などなど)をあげても、何の価値もないが、生活に役立たない宝石類や花などをあげると、相手にとってその価値は高まるというものだ。

どうして、そんなことを思い出したかと言うと、フィリピンで会う先生たちを喜ばせるためには、どのようなプレゼントがいいかという形而上学的な重要な問題をここのところずっと考えていたからだ。

そして、実際に購入したものは、マキアージュの化粧品、水彩鉛筆、デジタルカメラ、それにUSBメモリスティックなどだ。なぜマキアージュかと言うと、フィリピンにはマキアージュが売っておらず、価値が高いらしいので、それを購入した。

もし、仕事で必要なウェブカメラやマイク付きヘッドフォンなどを購入してしまうと、あまり喜んでもらえないのではと思う。USBメモリも仕事上使うものかもしれないが、このUSBメモリはオシャレでかっこいいものにしたので、辛うじてOKなのではと甘い予測を立てている。

これらのプレゼントをゲーム形式でみんなに配ろうと画策している。デジタルカメラを巡って、女と女の熱き戦いにならなければいいが、皆さんいい大人なので、そこはクールに徹してくれるだろう。

しかし、それにしても人にプレゼントをして喜んでもらうということは、骨の折れる作業だ。一昔前にヨーロッパに三週間ぐらいい滞在して、そのお土産に彼女にはパリで買ったハート型のペンダントをあげたことがある。

彼女は顔を引きつらせながら「ありがとう」と言ったが、内心は「こんなだせえペンダント着けられるか、ボケ!」と思っていたらしい。そして、プレゼントをあげたあとこう諭された。

「あなたのプレゼントの定義は間違っている。プレゼントとは、自分が欲しいものや相手に身に付けて欲しいものをあげるのではなく、相手が欲しいと思っているものをあげるのよ」と。この意見にラカンはどう思うのだろうか、存命だったら聞いてみたいものだ。

相手にとって無用なものでありつつ、さらにそれを相手が欲していると思われるものをあげる。これには実に高度な人間観察が要求される。その高度な心理戦に勝利したもののみが、大枚はたいて購入したプレゼントをあげて、相手に喜んでもらえるという栄光を手にするのだ。

プレンゼントを購入するときはどうしても自己満足に陥りがちだが、そのような誘惑を退けて、ひたすら相手が欲しているものを想像するという利他的な行動が必要とされる。

このように考えると、プレンゼントを購入するという行為すら、ある種の哲学的な行為に思えてくるから不思議だ。

ちなみに村上龍は25歳で芥川賞を取ったときに出版社の人に銀座のクラブに連れていかれ、そこで会ったとある会社社長にこう諭されたらしい。

「いいか、きみ。今のうちに遊んでおけ。20代だったら女からあわよくば奢ってもらえることもあるかもしれない。しかし、30代になったら花束でもあげないとまず相手にされない。そして、40代になったら宝石だ。50になったら、海外旅行でも連れていかないと一緒にいてもらえなくなる。おれみたいに60代になったら家でも買わないと相手にされない」と。

これもラカンと違った意味で深い。人間の業とはかくも深いものなのだろう。