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旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

コミュニケーションという言葉の再定義

最近はソーシャルメディアが大人気だ。だが、そもそもソーシャルメディアとは一体なんだろう。

ウキペディアによると、

ソーシャルメディアは、誰もが参加できるスケーラブルな情報発信技術を用いて、社会的インタラクションを通じて広がっていくように設計されたメディアである」

と表現されている。今までのテレビやラジオというメディアは産業メディアと呼ばれ、その違いを下記のよう記している。

ソーシャルメディアは新聞、テレビ、映画などの産業メディアから区別される。 ソーシャルメディアは誰でも(一人一人の個人でも)利用できて、比較的安価であるが、 産業メディアは新聞の発行や許認可制の放送業務のように、一般的には情報を発信するのに膨大な資源を必要とする。 産業メディアは通常「従来型」の「放送」「マス」メディアと呼ばれる」

ここでひとつ疑問が上がる。メディアという言葉の定義だ。今までの既存のメディアはすべて情報発信をその目的としてきた。だからこそ、企業はこぞってそのために莫大な費用を投下し、自身の製品およびサービスの宣伝をするために、その対価を支払ってきた。しかし、新しい形のメディアが台頭し、その概念を打ち砕いた。なにもそれほどの対価を支払わずとも、誰でも情報を万人に向けて発信することが出来るようになったのだ。それがソーシャルメディアと呼ばれるものだ。

しかし、ソーシャルメディアを通じて情報を発信するという発想そのものが、すでに古くなりつつあるように感じる。ツイッターミクシィの使い方をつぶさに追っていると、情報発信をしているというよりは、不特定多数の人たちとコニュニケーションを取っているだけのように思える。

一昔前まではコミュニケーションを取るということは、人と直接会ったり、せいぜい電話で話すことを指す言葉だった。(一昔前といっても、ほんの10年ほど前のことだけど)

それが今やe-mailで連絡を取ることは当たり前であり、携帯電話でいつでもどこでも連絡が取れ、友人や知人たちの動向はわざわざ会わずともミクシィツイッターで知ることが出来る。

コミュニケーションを取るということは、直接的な手段よりはより間接的な手段に頼るようになり、それを含めて「コミュニケーションを取る」ということになってきている。これは非常に重要な変化だと思う。コミュニケーションの定義そのものが変わってきているのだ。

このことの本質を理解していない人たちが「ソーシャルメディアを使ったマーケッティング」などというものにうつつを抜かしている気がする。コミュニケーションを取るということを掘り下げていくと、「お互いになんらかの利益がある関係を築く」ということに他ならない。企業がいかに資本を投下しても、コミュニケーションを取る相手にとって何の価値もなければ相手にはされない。(この場合の利益とはいうのは金銭的な利益だけではなく、彼・彼女と一緒にいると楽しい、あるいは刺激的だというようなことも当然含まれる)

メディアというものはもう情報発信するものではなく、コミュニケーションを取るためのツールとなりつつある。新聞、テレビ、ラジオなどは一方向性のメディアは廃れていき、コミュニケーションのツールとしてのメディアがこれからもどんどん台頭してくるだろう。

我々は言葉の定義が変容していくという稀有な時代に生きている。なんだかそれはとても楽しいことのように思える。人々にとって本当に価値あるものしか残っていかず、不要なもの、価値のないものは淘汰されていく。企業側からの一方的な情報発信には誰ももう耳を傾けない。そのことを踏まえて、きれいごとではなく「人々のために役立つこと」を考えていかないと、取り残されてしまう。

これはやはりどう考えても、楽しくクリエイティブな作業だ。必ずしもそのようないい会社が成功するとは限らないが、少なくても人々のためにならない会社は生き残ってはいけないことだけは確かだ。