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旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

ふるさとは遠きにありて思ふもの:沖繩にて

人に会うと、よく「ご出身はどちらですか?」と訊かれる。いやな質問だ。なぜなら「京都」と答えると「いいところですよね!」と相手のテンションが上がるからだ。住めば都というが、京都は盆地なだけに夏は蒸し暑く冬は非常に寒い。けっして住みやすい街ではない。

そして、「京都のどちらですか?」と訊かれるとまた如何ともしがたい気持ちになる。なぜなら「嵐山」と答えるしかないからだ。

嵐山はとても風光明媚なところで、観光に訪れるには素晴らしいところだと思う。でも子供の頃から清水寺苔寺と親しみ、渡月橋などは塾に通うために毎日自転車で疾走していた自分に取ってみれば、格別どうという土地ではない。

「京都、嵐山」と聞くと、相手のテンションが上がるだけに、相手の期待に応えてこっちもテンションを上げていきたいが、如何ともしがたい。まず中学二年生という中途半端な年齢で東京に引越し、今現在は京都とは何の繋がりもないからだ。親兄弟をはじめ、友人すらもう京都にはいない。それでも「ご出身は?」と訊かれたら「京都」と答えるしかない。

京都という土地に一切郷愁を感じることはない。

もうただ「昔住んでいた街」という認識しかない。

そして、今沖繩に沖繩出身の友人と一緒に滞在している。

彼が帰郷すると定期的に会う友人が一斉に会し、色々なところへと連れて行く。とても羨ましい環境だ。これが「ふるさと」というものだろう。彼の実家にも招待されご飯を御馳走になった。生まれた土地と密接な繋がりがあり、そこでのネットワークは健全に保たれている。

いかにネットワークを築けるかが現代社会では最も重要だ。生まれ故郷に住むメリットはそこにあり、また違う都市に住む場合はいかにそれを築けるかが重要だ。今の社会では情報量という面ではネットの助けを借りれば、地方都市であろうが東京のような大都市に住もうが大差はない。そして、人と人のコミュケーション、ネットワークはいかにその土地に入り込んでいけるかにかかっている。生まれ故郷にすでにネットワークがあるならば、それはとても有利に働く。

そんなことを考えていくと、元々根無し草のような自分のような人間は、どこに住もうが関係ないのだろうなと思う。ジャカルタだろうがマニラだろうが、ニューヨークだろうがそこそこ生きていける。

でもきっと「ふるさと」は一生手に入らないだろう。

まあ、それに縛られないだけでもよしとしよう。室生犀星も「ふるさとは遠きにありて思ふもの、そして悲しくうたふもの、よしや、うらぶれて異土の乞食となるとても、帰るところにあるまじや」と謳っていることだし。