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旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

日本におけるネイティスピーカーの市場価値

昨日は三姉妹とSkypeで会議をした。

話題となったのは当然新しく採用した先生たちおよび今後どのように採用するかという話だ。そのなかで日本におけるネイティスピーカーの市場価値について語り合った。

個人的には日本にいる外国人に関しては、とくに高い評価を下していないし、また英語を習う際もそれほどネイティスピーカーに頼る必要があるとは思っていない。だが、ここ日本では「ネイティスピーカー信仰」なるものが存在し、彼らの価値が不当に高く評価される傾向にある。

JOY先生なんかも「日本ではネイティスピーカーだったら、誰でもいいのよ。たとえそれが本国ではタクシー運転手やペンキ屋さんでも。フィリピン人だったら博士号を持っていても見向きもされないこともあるのに」と言っていた。

それ、言っちゃう?とは思ったが、たしかにその通りな一面もある。

大学の学会でも呪文のように「発音」に関しての議論がしきりに交わされている。日本人の多くは英語の発音を問題にするほどうまく話せないのに、彼らはそれに至高の価値を置き、ひたすらネイティスピーカー並の発音を身につけることこそ、英語学習の最終目標だと唱えている。

くだらない話だ。

もちろん、「コミュケーションが成立するぐらいの発音」で英語を話す必要がある。だが、容認される発音とは話者同士の関係性にも大きく左右される。例えば、ペネロペ・クルススペイン語訛りの英語で話せば、男だったら全身全霊で聞き取ろうと努力する。もう、多少の文法の間違いなんて誰も気にしない。完璧にコミュケーションは成立するだろう。

ネイティスピーカーの母国では誰もがニュースキャスターのような英語を話すと思っている人もいるが、それは大きな間違いだ。イギリスの場末のパブに行けば、良く分かるが、ニュースキャスターのような英語を話す人は皆無に近い。たいていのイギリス人はビール片手にフットボールを見ることに興じ、黒人選手が出て来ると「モンキー」と罵り、観客はバナナの皮を投げつける。贔屓の選手がちょっとでもミスをすると、「死ね!」と叱咤激励(?)するような人たちがわんさかいる。

イギリスの人気ロックバンドのギタリストはライバルバンドのボーカリストに「ああいうやつらにエイズが降りかかって死ねばいいのに」と宣い、これに比べれば沢尻エリカの「別に」なんて発言はかわいいものだ。

とまあ、話の方向性がどんどんとズレてきたが、ようは「色々な英語があっていいじゃない」ということだ。日本人が日本人訛りの英語を話すことはごく自然なことだし、ほかの国の人たちにもそれは言える。もちろん、英語の先生に関して言えば、訛りはないほうが好ましいので、そのあたりは厳しく選別することは必要だが、「外国人とコミュケーションを取る」ことを英語学習の目標にしている人たちにとってみれば、ある程度の訛りのある英語が聞き取れないとその目標実現はおぼつかないものとなる。

色々な英語を体験する機会を創出するということに関して、ワンズワードオンラインではネイティスピーカーを雇用することに意義は見出すが、彼らを特別扱いはしない。彼らは彼らのことを特別と考えていることも分かるし、その状況も理解出来るが、ワンズワードオンラインの基準に達しないと雇用する意味をあまり感じていない。

それにフィリピン人のほうが人がいいという大いなるメリットがある。あとは彼らにある程度の節度と、日本人のニーズを教えることが出来れば、ただの喋れるだけのネイティスピーカーよりも価値があると思っている。