週末、久しぶりに遠出をして、ブエノスアイレス中心部から電車で1時間ほどのところにあるティグレというところに行ってきた。(距離的には30kmほどしか離れておらず、車で行くと30分で行ける)
別荘地だけあり、どこか優雅さが漂う街だった。アルゼンチンが世界の先進国だった時代に、ブエノスアイレスの金持ちがいかに豊かな生活をしていたか分かる街並みだった。ブエノスアイレスの街自体にもそれは言える。今、引越しを考えて色々と物件を物色しているのだが、日本と違い石で出来ている昔の建物は耐久年数が100年ぐらいなので、築80年の物件などが賃貸に出ていたりする。
最近建てられた安普請のマンションに比べて、それらの建物はどれも優雅で、どこか荘厳さを湛えている。そんな建物に住めるチャンスがあると思うだけでも、ブエノスアイレスに来た甲斐があると思う。
今日、スペイン語を習っているロレーナ先生に「よくアルゼンチン人にブエノスアイレスになぜ来たのか、不思議がられるし、ブエノスアイレスが気に入っていると言うとみんな怪訝な顔になる」と言ったら、彼女は「それはアルゼンチン人はどこにも旅行に行かないから。彼らが自分たちがどれだけ恵まれているか分かっていない。アルゼンチンでは医療も教育も無料だし、食べ物もおいしいし、綺麗な建物も多い。経済も政治もこれから良くなっていくしね」と言った。
たしかに的を得ている意見だと思う。
ある意味、成り行きというかある種の偶然でブエノスアイレスに来た。しかし、4ヶ月経った今でも住み続けているのは、この街が自分にとって魅力的だからにほかならない。この街が嫌いだったらとっくの昔に引っ越しているし、ブエノスアイレスに自分を留めているものは自分の感情以外にほかに何もない。
これは人生のあらゆることについて言える。人が行動するときはたぶんに偶然に左右される。たとえば、「あの子がちょっと気になる」という理由で話しかけて、付き合うようになり、やがては結婚に至ることもあるし、子供が好きという理由で学校の先生になったり、「本が好きだから」という理由で編集者になったりするわけだ。
あとから考えると現在の結果を導いている「きっかけ」は本当に些細なことにしか過ぎない。たとえば、自分がオンライン英会話スクールを始めたきっかけも元はと言えば「こいつ、すげえ」と思った出会いが最初だ。
だが、しかしそれが現在もなんらかの形で継続し、そのきっかけから成果を得ているのは、すべて自分たちの意志による。
人はなんらかの偶然によって行動するが、結局は意志によってのみ成果を得ることが出来る。「英語が話せるようになれば、もてるに違いない!」と思って英語学習を始めても、最終的に熟達した話者になれるかどうかは自分の意志による。
きっかけはどんなに不純な物であっても、成果としてきちんと手にすることが出来るのは、そこに本物の感情が伴っているときだけだ。
ただ10年後、まだ仮にブエノスアイレスに住んでいるとして、「どうしてブエノスアイレスにそんなに長い間住んでいるの?」と訊かれても、きっと「なんとなく」と答えるのだろう。
本当に大事なことは中々言葉に出来ないし、10年という月日の重みで人々がその理由を察してくれることを願うのみだ。