ブエノスアイレスから世界一周の旅に出発したが、あっさりとメキシコシティで頓挫し、とりあえずは世界一周航空券ではなく、普通のチケットを別途購入して、11月末にはブエノスアイレスに戻る予定だ。
(チケットは一年間有効なので、4月末までに残りのチケットを使用して、グアテマラとペルーに行こうかと検討している)
それから2ヶ月くらいは滞在して、2月には一旦日本に帰国しようと考えている。
またそのあとメキシコシティに戻って、今度は本格的に住む予定だ。
ブエノスアイレスも魅力的な街だが、一度メキシコシティのような街に住み始めると、その住み心地の良さが気に入り、ブエノスアイレスのように常にインフレ、ストライキの場所に戻るのは気が引ける。
一生に一度も南米に住みたいと思ったことがない自分が、すっかりラテンの魅力にやられているのはなんか自分でもおかしくなってしまう。
アジアも魅力的だが、最近ではすっかり「日本化」が進んでおり、その点あまり魅力を感じなかった。
(たぶん、その点に魅力を感じて、移住するのが当たり前なのだが・・・・)
単純に言葉も違う、全くの異文化を体験したいという思いが根底にあり、自分では未開の地であった南米くんだりまで行ったのだと思う。
自分に全くなかったものを取り入れることによって、自分の幅も広がるし、実際にこっちに来てから、スペイン語、タンゴ、それにサルサとそれまで全く知らなかったものを取り入れて、随分と世界観が広がった。
(まさか自分がサルサまで踊るようになるとは夢にも思わなかったけど)
ラテンの国では、スペイン語も当然重要なコミュニケーションの手段だが、踊りもまた違う形のコミュニケーションの手段だ。日本でいうところのカラオケと同じストレス発散の手段だと思うが、カラオケはどこか一方的なコミュニケーションの手段だが、踊りは相手がいないと成立しないので、双方向なコミュニケーションだ。
そのあたりの違いが、ラテンの人たちの漠然とした幸福感にも繋がっていくのかもしれない。
カラオケで自分の歌声に酔いしれて歌っている人を見ると、「気持ち悪い」としか思わないが、メキシコ人の友人アビマエルがサルサのリズムに合わせて、楽しそうに踊っているのを見ると、微笑ましくなる。
(ドイツの哲学者ニーチェも踊りというのを高く評価して、幸福感を感じる重要な要素としていた。彼がイタリアではなく、メキシコあたりに夢中になっていたら、もっと幸せな人生を送れたかもしれない)
ラテンの人たちを見ていると、幸福というものは精神的なものではなく、身体的なものだと強く思わせられる。この人生、欲しいものは手に入らないかもしれないし、誰がも金持ちになれるわけではもない。でも、体をリズムに乗せて、ゆすって踊ればだれでも多少は幸福になれる。
幸福とは、本当はそんな身近な、どこにでもある小さなものなのかもしれない。そして、それを継続的に手に入れるためには、日々努力してベストを尽くすしかないのだろう。