ブエノスアイレスには昨日ついた。
そして、半年ぶりに自分のマンションに行ったら、水が出なかった。
ブエノスアイレスでは2ヶ月以上ガスなしで生活したこともあるし、インターネットなしで2週間生活したこともある。でも、一番辛いのは水なしだなと痛感した。
また今日はマンションの契約のために、警察署に行って「certificado de domicilio(住所証明書)」を申請する必要があった。しかし、所轄の警察署に行かねばならないので、マンションのオーナー兼建築家であるアンドレスに訊いてみた。
「チャカリタ墓地の裏にある警察署が一番近いから、そこだと思う」とのことだったので、散歩がてら歩いていってみた。
途中、中年の男二人が口喧嘩をしており、かなりヒートアップして殴り合いの喧嘩になった現場に遭遇した。さすがブエノスアイレス!動物園だ。
そして、警察署に着いたら、誰も待っていないのに5分程度待たされた。なぜなら、警察官のユニフォームに身をまとった幼稚園児たちが「キャッキャ、キャッキャ」とカウンターの向こうでお戯れになっていたからだ。
たまにこちらをちらちら見るが誰もアテンドしてくれる気配はない。こちらも相手が幼稚園児だろうが、曲がりなりにも警察官なので、あまり大きくは出れない。
そうこうしているうちに、たまたまこっちにやって来た女性警察官に訊くと、「住所は?」と訊いてどこかへと行った。もちろん、別に仕事をしているわけではない。また楽しい戯れへと参加しにいっただけだ。
さらに待つこと5分。
仕方がないので違う人に訊いてみた。そしたら、「ここは所轄の警察署ではない」と言われた。そして、違う住所の警察署の紙に書いてくれた。このあたりからブエノスアイレスでの作法を思い出し、すべてを疑い深い目で見ることにした。
「本当にここで合っていますか?」と問いただすと、「まえ来た人も君の近くの住所でそっちに回したから、合っている思うよ」と微妙な答えだ。
これ以上訊いても無駄だと思ったので、とりあえずそこに行ってみたら、案の定違う所轄の警察署だった。しかし、今度は担当の人が自分の住所を訊いて、さっとコンピュータで検索して、該当の警察署の住所を紙に書いて渡してくれた。
それ、最初から使ってくれ、マジで。
コンピュータがあるのに、なぜこの国の人はそれを活用としないのか、甚だ疑問だ。
そして、三度目の正直とばかりにタクシーを飛ばして行ってみた。そしたら、「なんの目的のために使うのか?」と訊かれ、「はあ?」となってしまった。
まず、この住所証明書の概要を説明しよう。
自分が住んでいる所轄の警察署に行って申請し、その翌日、あるいは翌々日、さらにはその次の日のうちに警察署に雇われた中学生みたいなガキがその住所に行って、実際にその人が住んでいることを確認して発行されるシロモノだ。
たぶん、100年前に猿が考えたシステムだと思う。
極東の国では、自動販売機で住民票が取れる。でも、このラテンの国ではすべては人力だ。ついでに住所証明書の申請もすべて係の人が手書きをして、変な台帳にそれを書き写して、それを見て人を派遣するという恐ろしく誤差やエラーが発生しやすい方法だ。
頼むからコンピュータとインターネットを使ってくれと思う。
100年前でも可能な方法をこの21世紀でも使ってほしくない。
革命とかイノベーションとか、つくづく無縁な国だと思う。
使用用途がなぜそんなに大事か分からないが、こちらの説明を訊いても、一向に聞く耳を持たず、仕方がないので出直すことにした。あいにくブエノスアイレスに着いたばかりで携帯電話にクレジットがなく、誰かに聞くことが出来なかったことが敗因だ。
やはり自分は甘かった。
この国は猿が考えたシステムを幼稚園児が運営している国だ。
そんな国では、不測の事態しか起こらない。
それに対して、現代の武器である携帯電話も持たず、また軽く散歩がてら行ってみるから痛い目を見るのだ。そんな心構えでは返り討ちに合うに決まっている。調べて調べて徹底的に調べて、さらにあらゆるコネを使って話を詰めて、それでも話が通るのが奇跡な国だ。
でも、住所証明書の使用用途なんて、たかだか知れている。少しは気を利かせて該当している部署の名前を書いてくれれば、それで一発だっただろう。しかし、幼稚園児には応用は効かない。
100年前に猿が考えたシステムを運用している人たちだ。そもそも、こんなアホな仕組みが現代に生き残っていることが奇跡だということに気づくことはない。
すべてを手書きで、台帳で管理している国だ。
日本は古くから外国から学び、発展と向上を旨としたきた。遣唐使などはいい例だろう。そんな殊勝な気持ちがアルゼンチン人にあるとは思えない。
政治や経済のことを嘆くのは簡単だが、このシステムの不効率さを是正し、無駄な労働力を削り、一人ひとりの労働効率を上げる・・・・・なんてことはこの国の人たちには無理に決まっている。
そうして自分の貴重な一日が費やされていく。
この国では働くことすらままならない。
たしかにそれでも嫌いではない。昨夜早速、ミロンガへと行き、タンゴを生バンドの演奏で聞いた。素晴らしい演奏だったし、二人のボーカルも情緒豊かに素晴らしい歌声でタンゴ音楽を歌い上げた。
キリギリスしか住んでいないのかもしれない。
アリはどこかへと逃げ出したのかもしれない。
でも、22世紀あたりはすべての労働は自由化され、人がそれ以外の付加価値で生きるしかなくなったら、この国はけっこうな価値が出るかもしれない。
まあ、そうでも思わないとなんとなく報われないのも事実だ。
そうして、毎日これから自分の幸せの閾値を下げて、どうしようもない徒労感を味わい、人生に対してとても肯定的な気持ちを抱くことになるだろう。
100年前に猿が考えたシステムを幼稚園児が運用している国がたぶんまだ世界中にたくさんある。そんなことを考えただけでも、まだまだ人類は向上の余地があるのは確かだ。
これからが楽しみだ。