Keep My Word

旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

無理解から始まる外国人とのコミュニケーション作法

最近、人間関係というものは、すべて相手に対する「期待」から問題が生じてくるのはと思うようになった。もちろん、以前からそのように思っていたが、歳を重ねることに相手に対する期待も減り、随分と楽になった。

ただ、そのかわり「諦め」という人生に閉塞感を及ぼすものも伴うようになってしまったのも事実だ。

例えば、アルゼンチン人やメキシコ人は時間は守らない。 簡単なことだ。

だから、相手が時間通りに来ることなど期待はしない。 そして、問題が起こっても、相手の言い訳を聞き流し、諦めることが肝心ではある。

ラテンの人たちの大きな特徴のひとつに、「問題は起こってから、対処する」というものがある。事前にあれこれと考えて、最悪の事態に備えて準備にしておくという発想はない。だから、フィリピンやアルゼンチンでは毎年のように停電し、災害に襲われたときはいつも右往左往している。

人の命は軽んじられる代わりに、人の幸せは軽い。 毎日、食べて飲んで歌って踊れれば、それでいいという節がある。

それが悪いというわけではない。 おそらく考え方の違いというやつだろう。

日本人とラテン系の人たちはとことん相容れないものがあるにちがいない。 だからこそ楽しいと思える時も多々ある。

ただこれらラテンの国の一番最大の問題は、「貧乏人に生まれたら死ぬ時まで貧乏人のまま。そして富裕層は働きもせず自由気ままに生きている」というまた別の社会的な閉塞感だ。彼らが人生、あるいは物事に対しての取り組みを早々に諦めるのはそういうところに起因しているのかもしれない。

言語を学ぶということは、そういった社会的な背景も学び、それらを踏まえた上でコミュニケーションを取らないといけないのだなと思う。

相互理解というのものは、「相手を理解したい」ということがスタート地点ではなく、「相手のことは、どんなにこちらが頑張っても完全には理解できない」という諦めからスタートしたほうが案外うまくいくのかもしれない。