Keep My Word

旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

ふるさと

“ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの” 室生犀星

久しぶりに京都へ行った。
そして、生まれ育った家へ行った。

正確に言うと、生まれ育った家があった場所へと赴いた。
思い出のたくさん詰まった家は、僕がイギリスに留学しているときに
取り壊されている。
もう十年近く前の話になるだろうか。

家がなくなると聞いて、そのとき僕はなにも思わなかった。
イギリスでなんとか生き抜いていくことで必死だったし、
家というものに対してそれほど執着はなかった。

ふるさとは、家なのだろうか?
家がないものは、ふるさとがないのだろうか?

室生犀星は冒頭に挙げた詩のあとにこう綴っている。

“よしやうらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや”

この詩の意味するところのふるさとは、僕にとっては
日本そのものだった。
若い頃は、日本的なものがただただ嫌だった。
それが高じて、海外へ行った。

日本に帰国してから、すでに六年以上経っている。
海外に住んでいた時間よりも、多くの時間を費やしてしまった。

今の僕のふるさとは、なんだろう?
生まれ育った嵐山の街を歩いても、なんの感情も湧いてこなかった。
もっとノスタルジックな気持ちになってよさそうだが、そんな
気持ちは一切湧いてこなかった。

もしかしたら、自分があれほど嫌悪していたものに取り込まれて
しまったのだろうか?

ふるさととは、安住と同意義語なのかもしれない。
肉体的にも精神的にも旅を続けることは、骨が折れる。

いつしか僕はすっかり安住してしまったようだ。
どこにいようと、ふるさと的なものから遠く離れていたい。
そして、夕暮れ時にでもふるさとを思い出して、ひとりごちるのだ。