あと数日で10年ぶりにインドの地を踏むことになる。
あれはたしかに21歳の夏だ、初めてインドへ行ったのは。
あれから本当に10年経ったのだと、実感する。
まさかこんな31歳になっていようとは思ってもいなかった。
とくに後悔なんてしていないが、人生不思議なものだ。
もっと旅をしたかったし、成功していたかった。
でも、これが僕の限界だったのかもしれない。
僕の人生プランは、だいたい22歳で尽きている。
15、6歳の頃、夢見ていたのはただひさすら異国の地を旅して周り、海外に生活の拠点を持つことだった。
そうして、僕は19歳でシベリア鉄道に一人に乗って、エディンバラへと移り住み、そこを拠点としてインドやほかのヨーロッパへと旅した。
エディンバラを離れる決意をしたのが22歳のときだ。
僕はエディンバラでずいぶんと満たされてしまった。
エディンバラに住むまでは、あらゆることに飢えていた。
なにかを為すためには、欲することが必要だ。
欲するためには、飢えが必要なのだろう。
それが22歳のときに、すでに決定的に失われてしまった。
また如何ともしがたいことに、僕は野心や欲望を持つような育てられ方をしていない。
なにかを欲するということに対して、どことなく「恥」という概念すら伴う。
この10年、僕はアドリブだけで生きてしまった。
幸運なことは10年間もアドリブだけで生きていけるものを、22歳までに身に着けていたことだ。
それまでにうんざりするほどのたくさん本を読んで知識と教養を身に付け、英語も話せるようになった。
知識を身に着け分かったことは、あらゆることは経験尽くされ、新しいことなどなにもないということだ。
だからこそ、旅に出たかった。
自分の目で、世界を見て確かめたかった。
そして、僕は満たされてしまった。
陳腐な話だが、生きることは素晴らしく、ただ世界は美しかった。
17、8歳の頃は「でかい家に住んで、ポルシェに乗りたい」なんて言っているやつは、アホかと思っていたが、今では非常に健全な精神な持ち主だと思うし、正直羨ましい。
欲するということは、善であり、圧倒的に正しい。
10年アドリブで生きて思ったのは、やはり前へと進むべきだということだ。
欲望でも信念でも自分のツールとして使い、成し遂げることこそが大切である。
理由付けはなんでもいい。
結果がものをいうのだ。
僕は今までプロセスを大切にするあまり、結果を犠牲にしてきた。
今後の10年は結果こそ、求めるべきものだと思う。
精神的に充足するのは、肉体的に充足するよりもじつは簡単なのかもしれない。
誰でも聖者になれるチャンスはあるが、億万長者になれるチャンスはない。
ビル・ゲイツさんみたいにまずは億万長者になってから、聖者になろうとするのはとても健康的なのだ。(その逆は失敗例が多いのは、この説を実証している気がする・・・・)
自分が持っている今最大の欲望を探してみる。
ゴキブリのいない家に住みたい・・・・・
今後の10年がますます不安になってきた夜だ。