Keep My Word

旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

ブラジル上陸

サンパウロの空港に降り立ったのは、日本を経ってから24時間近くを経過した2008年1月1日午前10時半だ。新年を迎えたのは、ニューヨークからサンパウロへ向かうどこかの空の上になる。生まれて初めて、まったく無意識のうちに新年を迎えてしまった。何かと祝い事が好きなので、年が明ける瞬間をいつもどきどきして迎えていたが、機上ではただぼんやりと過ぎ去る雲を見つめていただけだ。空の上では時間の感覚なんてない。

Brazil

カメラ機材の入った重いカメラバックを肩にかけ、背中には衣類の入ったリュックを背負い真夏のブラジルの土を踏んだ。サンパウロ市内に向かうためバスの切符売り場に行き切符を買おうとするが、まるで英語が通じない。
ブラジルへ来たのだなと実感する。

日本人の移民が多く住むリベルダージという地区のホテルを見つけた。予約なんてしてこなかったので、適当なホテルを見つけるのに少し時間がかかったが、一人旅なので重い荷物を抱えてどんなに歩き回ろうと誰も文句は言わない。

ホテルの部屋は思ったよりはるかに清潔で、ちゃんとお湯が出る。ブラジルのホテルはインドと同じようにたとえ五つ星ホテルでもお湯も出ず、どこか不潔さがあると想像していたのだが、それは大きな勘違いだったようだ。

Brazil, hotel

フライトの疲れを癒すためシャワーを浴び着替えて、街に出る。元旦なので閉まっている店が多かったが、中国人が経営している店のいくつかは営業している。当初は「日本人街」と言われていた街も、最近では中国人や台湾人の数が増え「東洋人街」と改名している。活気のある東南アジアの市場のような街並みを想像していたのだが、そんな勢いのある街ではなく、どこか陰鬱な雰囲気が漂っている。

機上では満足な食事を取ることができなかったので、空腹だった。写真を撮る前にまずは腹ごしらいと思い、ホテルから歩いてすぐのところにあった中華料理屋に入った。店は10人も入れば満席になるような店だったが、まだ新しく清潔だった。中国人のウェイトレスが出してきたメニューは二枚あったので、一枚は英語でもう一枚はポルトガル語なのかと勝手に想像したが、どちらもポルトガル語と中国語が併記してあるだけのメニューだった。単純にメニューが豊富な店らしい。湯面とあったのでラーメンのことだろうと思い、それを注文した。ついでにビールも頼もうと思い英語で「ビア」と言うが、全く通じない。それを見かねた隣のテーブルの中国人らしき男性が、流暢なポルトガル語で代わりに注文してくれた。

注文が終わり一息つくと、その男性が「あなたをホテルのロビーで見かけました」と話しかけてきた。僕がホテルにチェックインをしているのを見かけたらしい。それが会話のきっかけとなり、英語で話を始めた。英語もかなり流暢なので最初はずっと英語で話をしていたのだが、話を聞いてみると実は日本人であることが判明した。それでもなぜかお互い英語で話を続けていたが、店が満席になり彼が隣のテーブルから僕のテーブルに移ってきたタイミングで日本語で会話を始めた。

その男性は宮下さんといい、大学を休学して三菱商事に入社し、サンパウロに赴任してきたのだという。それからカナダに4年ほど住んだが、またサンパウロに戻ってきて、今はリタイアして悠々自適の日々を過ごしているとのことだった。海外生活は40年以上にもなり、ブラジルの永住権も取得したという。海外生活4年にも満たない自分から見れば、大ベテランの海外生活者だ。

日本のどこの出身かと聞くと、「千葉」という答えが返ってきた。千葉には妻の実家があるので、詳しく聞くと「佐倉」出身とのことだった。なにを隠そう妻の実家は佐倉の隣の酒々井町だったので、そこでお互い意気投合し、「世界は狭い」とつくづく思った。(そのあとしばらく佐倉のローカルな話題を話した。サンパウロに着いた初日に、佐倉の歴史博物館というローカルな話題で盛り上がるとはまったく思いもしなかった。ちなみに宮下さんいわく歴史博物館が建つ前は、そこには佐倉城の砲台が並んでいたそうだ。)

食事の終わった僕たちは店が満席になったので追い出された。佐倉と酒々井でぐっと親近感を増したのか、宮下さんが近所を案内してくれることになった。東洋人街は今では台湾人や中国人に支配され、日本人は片隅に追いやられているとのことだ。日本人は海外に来たらまずその現地の言葉を覚え、現地に馴染もうとするが、台湾人たちはそんなことは一切思わず、着いた初日からビジネスを始める。そんな彼らに押され、東洋人街の大半は彼らに買い占められているらしい。多くの日本食屋もそのほとんどが彼らの経営だという。

この街に漂う陰鬱な雰囲気は、そんな日本人たちの呪詛なのだろうか。かって自分たちが苦労して切り開き作り上げた街が、今ではよそ者に支配されている。弱肉強食の世界なのでどうしようもないことだが、個人的には東洋人街でマイナーな人種になりつつある日本人に肩入れしたくなる。それは同胞への思いというより、後だしじゃんけんで負けたかのような悔しさがあるからだ。

市内観光はそこそこで切り上げ、のどが渇いたのでカフェに入った。夏の飲み物といえば当然ビールだろうということで、ビールを頼み一息ついた。ブラジルのビールはとても軽く、水のように飲んでしまう。「ブラジルではビールは水よりも安いから、それが男たちの口実になりみんなビールばかり飲む」と宮下さんが言った。たしかに値段も200円くらいなので、水代わりに飲んでも問題ない値段だ。日本と比べて、そのほかの物価はそれほど安いと感じなかったが、ビールだけは破格の値段だと思った。ビール好きの僕にとっては天国に近い。

Brazil, beer

ビールを2本飲み、いい感じになった僕たちは日本や日本人のことに語り合った。そのうちブラジルのローカルのアルコール飲料の話になり、注文しようということになった。これがいけなかった。カイピリーニャという砂糖きびから作ったアルコール飲料とライムのカクテルなのだが、非常に強いお酒だ。ただ口当たりはよく、ついつい飲みすぎてしまう。宮下さんも長期海外在住者だが根は日本人で、「せっかくなのでどんどん飲んでください」とグラスが空いたらすぐに注文してくれる。ありがたがい話だが、結局5杯飲んでダウンしてしまった。

カイピリーニャ4杯目と5杯目のあいだぐらいに「松岡さんにとって、プロとはなんですか?」とやっかいな質問を受け、頭を回転させて答えようとしたがうまく答えられなかった。なぜそのような質問を受けるに至ったかよく思い出せないが、日本人は責任の所在をはっきりさせることが少ないから、とてもストレスを感じることがあると僕が言ったのがきっかけだった気がする。

写真でもどんな仕事でも、お金をもらうかぎりみんなプロなのだから、自分の受けた仕事は自分で責任を負うのが当然なのだが、日本ではどうも責任を取るという行為を避ける人間が多い。事なかれ主義といってしまえばそれまでだが、問題はもっと深いところにあるような気がする。日本の社会の問題は、責任を取らない人間が出世してしまうということにある。責任だけは他人におしつけ、成功したらおいしいところだけを取っていく人間が上に上り詰めていくのだ。今いる政治家を見れば、それがよく分かる。どの顔を見ても、うまい汁だけ吸ってきた人間の顔だ。

人生に彩りを添えるのは、成功ではなく失敗だ。成功して自省する人間はいないが、失敗したら誰もが自省し、問題点はなんだったのかと己を見つめなおす。そういった瞬間が人間に成長を促すのだが、それは自分で責任を取るというスタンスの人間でなければできない経験だ。

今でも「プロとはなにか?」と聞かれても、うまくは答えられない。ただ少なくても自分は責任を取ろうと思う。どんな局面に遭遇しても、すべては自分の責任だと思うようにしている。

カイピリーニャ5杯目の飲み干す頃には、すっかり出来上がってしまいまともに歩けるか不安だったが、ホテルまでは歩いて5分もかからないので、なんとか歩いて帰った。宮下さんもわざわざホテルまで送ってくれ、ブラジルの旅の幸運を祈ってくれた。

ホテルの部屋に着くと、そのまま倒れるように眠った。飲み始めたのが夕方でまだ早い時間だったが、そんなのはお構いなしだ。

旅の初日としては悪くない日だった。