Keep My Word

旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

ロマンティストよ団結せよ!

僕は何事にも準備を怠らない男だ。
知らないところへ行くときなどは、まずはグーグルで住所検索をし、そして乗り換え案内を駆使して、予定の時間よりも大幅に早く着くようにしている。特に海外に滞在するときは飛行機などに乗り遅れると大変なので、早朝の便に乗るときはいつも起きるべき時間の2時間ほど前から、熟睡モードからうたた寝モードにシフトし、心地よいレム睡眠を貪っている。(あまりに断続的な眠りなので、時々デビット・リンチばりの悪夢にうなされることもあるが)

かように常に緊張状態を維持して、ブラジルでも旅をしていた。ほとんどの飛行機が早朝の便であったのにも関わらず一度も乗り過ごすことがなかったのは、こういう状態を維持していたからにほかならない。

そんな僕だが、きっとイグアスの滝に行くことで、少し浮き足立っていたに違いない。前日にホテルのフロントでアルゼンチン側から見るイグアスの滝ツアーを申し込んでおいた。ここまでは完璧だった。ツアーの出発直前になってスイス人カップルが慌ててツアーに申し込んでいるのを、若干蔑む目で見ていたことをここに告白しておく。

全員が揃ったので、僕ら一行はワゴン車に乗り込んだ。メンバーは、先ほどのスイス人カップル、ブラジル人カップル、それにポルトガル人カップルと僕だ。ツアーガイドのブラジル人が出発の合図を告げ、車のエンジンがかかった。

そこで助手席に座っていたツアーガイドがこう言った。
「一応、念のために聞いておくが、みんなパスポートは持っているか?」

「はあ・・・・・パ、パスポート?」
よくよく考えてみればそれはそうだ、僕たちはアルゼンチンから、イグアスの滝を見るのだ。頭の中では都合よく、アルゼンチン側イグアスの滝と固有名詞化していたが、あくまでアルゼンチンは外国であり、ブラジル国外に出るにはパスポートがいる。

一瞬のうちにこのような諸々のことが頭の中を駆け巡り、僕は「ちょっと待ったああ!パスポート持っていません!」と大声を張り上げ、その勢いでワゴン車から飛び出し、一目散にホテルに取りに帰った。僕が飛び出していったワゴン車が笑いに包まれたのは、言うまでもない。

Brazil, Slvia Pedoro

特にそれがきっかけというわけではなかったが、英語が話せないブラジル人カップル以外の人たちとは仲良くなり、ワゴンから降りてイグアスの滝に向かう道で、色々と話した。ポルトガル人カップルは、シルビアとペドロと言い、シルビアの専攻は生物学で、今年ドイツの大学で博士号を取得し、2月からスタンフォード大学で働くという。ペドロも彼女と一緒にドイツの大学で博士号を取得し、一緒にサンフランシスコに行って会社で働くという。ペドロの専攻はコンピューターバイオロジーとのことだ。

スイス人カップルも、ダニエルという男性は博士号を取得し、今は第三諸国に井戸や建物を建設する会社に勤めているとのことだ。博士号とはいうものはそんなに気軽に取れるものだろうかと訝しがったが、きっと優秀な人たちなのだろう。それに特にそれを鼻にかけることもなく、とてもいい人たちだった。

特にシルビアはラテンの血がそうさせるのか誰に対してもフレンドリーで、僕が一人に参加していることを気にかけてくれて、イグアスの滝をバックに僕の写真などを撮ってくれた。

ボードに乗って滝壷まで行けるツアーだったので、それなりにエキサイティングで楽しかった。なかでも最も印象的だったのはデビルズフォールと呼ばれている滝が集まる谷で、これを見るためだけにここに来るだけの価値はある壮大な光景だった。隣でじっと滝底を眺めていたダニエルは、「この場所の名前がデビルズフォールと言う縁起の悪い名前で良かったよ。ヘブンズゲート(天国の門)なんて名前だったら、迷わず飛び込むくらい魅力的な光景だ」と言った。

Brazil, イグアスの滝

実際、幾つもの滝が流れ落ちる滝底は神秘的な魅力があり、ふと魔が差した瞬間に飛び込んでしまうかもしれない。覗き込んでいると、異世界の入り口のようにぽっかりと空いた滝底から湯気が立ち込め、鳥肌が立つ。

「あの滝底にはなにがあるのだろうね?」とダニエルに何気なく訊いてみると「マクドナルドがあったりして」と冗談でかわされたが、ずっと見ていても飽きない光景だった。僕たちは滝からほとばしる水しぶきでずぶ濡れになりながら、かなり長い時間ずっと滝底を眺めていた。

あまりに偉大な自然を前にすると、なぜ死への憧憬が生まれてくるのだろう。人間が本来持っている自然回帰への願望なのだろうか?この滝底に飲み込まれたらどんなにか幸せかという思いが募り、慌てて頭の中で打ち消した。

「70歳ぐらいまで生きたら、この滝底へジャンプして落ちながら、走馬灯のように自分の人生を振り返って死ぬのも、素敵な死に方かもしれないね」と僕はダニエルに言った。彼も「ここのフェンスは低すぎるよ。もっと高くすべきだ。そうでないと、そういうやつが本当に出てきそうだよ」と答えた。

Brazil, イグアスの滝

僕たちはそんな悪魔的な魅力を持った滝をあとにして、ワゴンに乗り込み国境を越えてブラジルへと帰った。ワゴンのなかの誰もがイグアスの滝に行ったことに対して達成感を抱いており、車内には幸せな気分が蔓延していた。

ホテルに着くとせっかく知り合いなったのだからということで、僕たちは一緒に夜ごはんを食べることにした。カイピリーニャを飲みながら自分たちの仕事の話になり、シルビアは自分の研究職がいかに報われない職業かを語った。

彼女が行っている研究は、ほとんど一人で行う種類のものでニ、三年を費やして、やっと成果が上がったと思って発表をしても、それよりも一日でも早くほかの研究者に発表されるとすべてが水泡に帰してしまうという。「本当はみんなが協力して、ひとつの研究に没頭すれば研究期間は短縮されると思うの。でも、絶対にそうはならない。世界的に権威がある学会に参加しても、発表されることはすべて既知のことばかりで、大事な研究は絶対に公の場で公表せず一人で抱え込むのよ。そして、完成させて初めて発表するの」

シルビアは「自分はロマンティックな人間だから」と僕たちに断りを入れて、「みんながもっと協力すべきで、一人の人間の成果よりも全体の研究に寄与することのほうが重要なはず」と訴えた。

研究職というのは自分には想像ができないくらい孤独で、徒労の多い職業らしい。彼女のように物事全体を俯瞰して見れる人間に取ってみれば、ほかの研究者が個人の成果のために血眼になって努力していることは許せない行為なのだろう。だからといって、全体への寄与という視点から物事を見た場合、個人の成果なんて所詮は雀の涙ほどの寄与しかできず、たいていの人間はそんなことを考えたら絶望に打ちひしがれ努力する気力すらなくなってしまう。誰もがアインシュタインニュートンになれるわけでもなく、またなる必要もない。どこかで折り合いをつける必要がある。努力というものは、ミクロ的な視点によってのみ行うことができ、マクロ的な展望に立ってしまうと自分自身を見失う危険性がある。あくまで個人の成果があってこその全体への寄与なのだから。
彼女のような研究職の場合、もう割り切ってやるか心底信頼できる人たちを見つけて一緒に研究するしかないのだろう。

自分の状況に置き換えて考えて見ると、僕がブラジルくんだりまで行って写真を撮るという行為は、個人のレベルでは成果といえるが、人類全体を考えてみた場合、鼻くそ以下の価値しかない。それは個人や写真の優劣とは別次元の話だ。ただ常々思うことだが、他人の幸せを考える前に、自分の幸せを考えることは非常に重要だ。全体への寄与も結構な話だが、それよりも自分がやりたいと思うことやり遂げ、それが全体へ少しでも寄与できれば幸せなことだ。

シルビアがいう「ロマンティックな人間」たちは、そういう狭間でもがきながら、なんとか折り合いをつけて生きていくしかないのだろう。
遅かれ早かれ、人間は死ぬ。そこを人生の終着点として見定め、より多くのものを全体に寄与できればと願いつつ、小さいマクロなところで日々蠢きながら、生きていくのが人の一生なのかもしれない。

彼らのように非の打ちどころがないほどに頭のいい人たちでも、人生の根本なところで悩みながら生きているのだなと思い、なんだかほっとした。来月からはスタンフォード大学の堅物たちを相手にロマンティックなシルビアはどう対処していくのか非常に気になるが、きっと彼女ならやっていけるだろう。ペドロという良きパートナーに恵まれていることだし、彼らの熱意があれば周りの世界を彼らの色に染めることができるかもしれない。

ロマンティックな価値観がサンフランシスコから世界に広がることを心から祈った夜だった。