Keep My Word

旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

遠花火

今日、ばらばらとめくっていた雑誌に、遠花火という言葉が載っていた。
俳句の季語として使われているらしい。

僕にとって花火といえば、祖父母が住んでいた真鶴で見ていた花火大会が思い出される。 祖父母の家からは、花火がよく見え子供の頃は毎年待ちきれないくらい楽しみにしていた。
敷き布団を重ねて、窓辺にかじりつき桃やスイカをかぶりつきながら見る花火に夢中だった。 今でも毎年花火を見るとその頃の状況がまるで昨日のことのように思い出される。
あれほど何かを心待ちにすることなど、今ではそうはない。

花火とはそのように見るものだった。
しかし、年頃になると女の子と横浜の花火大会や東京湾の花火大会に行くようになり、 そのたびに幻滅させられた。 どこに行くにも人だらけで、それに通行規制がひどく前に一歩を進めない。
そこまでして花火は見るべきものだと思ってもいなかったので、心底嫌気が差した。

子供の頃から花火そのものよりも、花火を見るその空間に僕は魅せられていたのだろう。 家族みんなで果物をつまみながら、敷き布団の上に寝転び見る花火は最高だった。 そんなゆるい空間がたまらなく好きだったわけだ。

昨日、隅田川花火大会があった。
うちから花火があがる浅草の吾妻橋までは、自転車で10分ほどしか離れていない。 せっかくなので友人たちを呼び、うちのマンションの屋上でバーベキューをしながら花火を鑑賞した。 子供の頃に見た真鶴の花火大会よりは小さく見えたけど、十分に堪能できた。
まさに遠花火だった。

ただ残念なことに、花火にはそれほど熱中できなかった。
子供の頃はそれに100%費やしていたのに、今では色々とつまらないことが頭を駆け巡り、 気分的にも遠花火だったわけだ。

花火に熱中できないのか、それとも今あるこの一瞬一瞬に熱中できないのか分からないが、 単純にそれほど感動できなかった。そして、それは花火だけではなくあらゆることに当てはまる。

遠花火一夜明ければ遠い夢

そんな気分だったわけだ。
何も考えずに花火を見ることができないと、まずいなと思った。
無邪気に花火の美に心打たれながら、無心にスイカをかじることはこの上ない幸せだと思う。 どうして、そんな単純なことができなくなったのか理解できない。
年を取って、やたらと不器用になったのだろうか?

遠花火とはうまくいったものだ。
その単語を頭のなかで反芻しながら、今夜は眠ることになるだろう。