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旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

ゴールデンスランバー

小説の映画化は、難しいと言われている。
しかし、中村義洋監督/伊坂幸太郎のタッグはその常識を覆すかのように「アヒルと鴨のコインロッカー」、「フィッシュストーリー」で小説よりもよりエンターテイメント性を高め、なおかつ映画でしかできない表現方法で、楽しませてくれた。

「オーデュポンの祈り」から衝撃を受けて以来、伊坂幸太郎の大ファンなのだが、上記二作においては「原作の小説よりも出来がいい映画」だと思っている。

そして同じタッグによる「ゴールデンスランバー」を期待して見に行った。
結論から言うと、映画版「ゴールデンスランバー」は小説「ゴールデンスランバー」のただのダイジェストになってしまっており、非常に残念な作品だった。

小説のコンセプトは「圧倒的な権力を相手にして一人で戦うことは無謀なので、逃げるという選択肢があって然るべき」というものだ。そして、小説ではじわじわと権力側に追い詰められる過程において「逃げるという選択肢」が非常に有効なのがリアルに描かれているのだが、映画では「別に逃げなくてもいいじゃん」ぐらいの緊迫感しか感じられないので、「逃げる」ということ自体に説得力がない。

見終わった観客の反応を見ていると、「で、結局真犯人だれなの?」といった反応が多かった。小説を読んでいる人ならば、それはテーマでないことは明白なのだが、「逃げる」というテーマがリアルに描かれなかったために、ただのサスペンスだと勘違いした人が多かったのだろう。

小説だとラストは「青柳、あんた偉いよ。ほんと良く逃げた」とほとんど泣きそうなくらい感動するのだが、映画だと「おまえ、逃げてばかりいないで、もうちょっと頑張れ」と思ってしまう。

伊坂流の色々な伏線も有効に使われていたが、「全世界から敵にされても、親と友だち、元恋人は信じてくれている」という前提での伏線であるため「全世界を敵にしている」部分にリアリティがないために、感動が薄い。

小説「ゴールデンスランバー」はとても完成度が高く、それを上回るのは至難の技だ。だからこそ、割り切って小説と同じアプローチではなく、サスペンス要素 を高めるなど違うアプローチでしか成功できなかったのではと思う。極端な話、監督を外人にするなど、それぐらい違うアプローチが必要ではないだろうか。(ジェームズ・ キャメロン版「ゴールデンスランバー」なんて見たい気がする)

吉本ばなな原作の「キッチン」も監督と香港のイム・ホーが撮った「キッチン」がある。この例にならって、どこか外国の監督が「ゴールデンスランバー」を監督しないかなと願っている。ちなみに僕はイム・ホー版「キッチン」は素晴らしいと思い、以前富田靖子さんを撮影したときに「キッチン感動しました。広東語お上手ですね」と言ったら富田さんが「全部吹き替えなんです〜」と言われてプチショックを受けた。