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旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

英語で変わる世界の見方:読み物として日本の新聞はどうか?

いつから日本の新聞を読まなくなったのだろう。
朝日新聞日本経済新聞など色々試したが、どれも読み物としてつまらない。そもそも読み物として新聞を読むのが正しい新聞の読み方がどうかは分からないが、ずっとそのようにして新聞を読んできた。

新聞に夢中だったのは中学生の頃だ。その頃は新聞かテレビしか、外の世界を知る手段がなかった。朝刊を隅々まで読んだあとは、夕刊が届くのを今か今かと待ちわびた。社会欄をもとより、経済欄までくまなく読み、社説なども興味深く読んだ。

それは19歳でスコットランドに留学するまで続いた。そして、それ以降はそれほど日本の新聞を熱心に読まなくなった。なぜならイギリスの新聞のほうが読み物として断然面白かったからだ。23、24歳の頃はロンドンに滞在し、毎日のように階下にあるニュースエージェントでガーディアンという新聞を買っていた。そして日曜日になるとオブザーバーという新聞を半日以上かけて読むのが習慣だった。

ロバート・レッドフォードを取材した女性記者は、彼が自分にだけ紅茶を注ぎ彼女には注いでくれかったことを揶揄し、やっぱり嫌なやつだと断罪し、ジョージ・クルーニーを取材したまた違う女性記者は彼と同じホテルに滞在して、「今度自分が監督する映画の脚本を見せたいから部屋に行っていいかい?」と言われ狂喜乱舞したことを新聞紙上で告白した。

また作家ハンター・S・トンプソンと彼のトレーラーハウスで3日間生活を共にした記者は、プライベートの問題の悩みを彼に打ち明けて、彼の暖かい言葉でずいぶんと救われたことを記した。

彼らが書く記事はどこまでも主観的であり、ウィットに富み、そして皮肉に満ちている。日本の大新聞があたかも自分たちが公平性に満ち、客観的な立場を貫いていると自負していることと非常に対照的だ。

人間はあくまでも主観的な生き物だ。絶対的な客観性を持ち得ることはまずあり得ない。そういう意味では新聞は、どこか恣意的にならざるを得ないわけだ。

日本とイギリスではそもそもジャーナリズムの定義からして違うのだろう。それに英語という言語は「主語」を使わないと成り立たない言語であることも、彼らをより主観的なものの見方に駆り立てる。日本では署名記事はめったにないが、イギリスでは署名がない記事はない。人間誰しも間違えるし、あくまでそれは人が書いた記事であることを前もって書き記すことにより、読む人々もただの一人の人間の意見として受け入れることができる。

日本の新聞を読んでいると、あたかも「新聞」という生き物がそれらの記事を書き記しているかと錯覚してしまう。そんなものは存在しないし、絶対的に中立的な立場を保持することは不可能だ。

そして、われわれはもう「味のしない生ぬるいスープ」のような記事を欲っしていない。もっとクリアでエッジの効いたスープが飲みたい。ネットの世界にはそのような記事がたくさんアップされているので、必然的に情報を取得する手段として、ネットに頼るわけだ。

なにも新聞というメディアが死んだなどというつもりはないし、これからも生き残っていくだろう。だが、今の形のままでは無理だ。日本の新聞はネットのせいで力が弱まっていくのではなく、その記事の求心力のなさでどんどん力を弱めていっていることに気づくべきだ。

たとえネット上ですべての記事を閲覧可能にしても、それほど読者を獲得できると思えない。なぜなら、読み物として圧倒的につまらないから。記事を検閲しすぎて、まともに意見を言えない仕組みを是正しない限り、今後も読者は減り続けるだろう。