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旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

友人の定義

週末、友人4人で集まったときに「友人とは」という話になった。例えば、今回の旅でのように15年近くも会わなかったクリスティーンも自分にとっては大切な友人と言える。一方では、毎日のように顔を合わせていても、友人とは言えない人もいる。このくくりは結構難しい。

上記本では、友人の平均数は6人程度とのことだ。ソーシャルメディアが発達している現在、友人の数は爆発的に増えていると錯覚しがちだが、じつはそんなことは全くなく今でも平均6人程度という調査結果が出ている。人間が許容できる友人の範囲というものがあるのだろう。

友人の定義は個人差があるだろうが、多かれ少なかれ「一緒にいてなんらかのメリットがあり、居心地がいい」という曖昧なものに集約されるのではないだろうか。一緒にいればいるほどデメリットになる人とは付き合うわけがないし、またどんなにメリットがあってもいけ好かない人間と時間を共にするのは避けたい。ただこれはごく表面的な定義である、本当のところは「距離感が近い、フィーリングが合う」というなんとも曖昧なものになってしまう。

友人を定義するのに、共に過ごした時間の長さは関係ない。

たとえ毎日会ってはいても距離が縮まらない人もいるし、15年も会わなくても距離が近い人も存在する。それに自分にとってシンガポール人のアーネストのように2、3年に一度しか会わなくても、いつもなんとなく頭の隅で気になっている人もいる。

ある人間とある人間が近づける限界値というものが存在し、そこに到達するのに時間がかかる関係性もあるし、奇跡的にも一瞬で到達する関係性もある。一度、その限界値に到達すると何年も会わなくても、その関係性の近さは変わることがない。

この限界値に到達することを至上命題にしている自分のような人間にとっては、割と早く友人とそうではない人間の区別はつく。それと「人からどう思われても気にしない」という神経の図太さも人との関係性を構築するには有用に作用する。(これは「人と人は一生かけても完璧に分かり合うことはない」いう一種の諦観から来ている考えだ。だからこそ、正常な関係を構築するのには最大限の努力をすべきだと思っている。)

ただこのような人間にとって落とし穴もある、それは「他人から自分は影響されることはない」といううぬぼれだ。影響されないどころか、人は友人からだけではなく、会ったこともない友人の友人からまでも影響を受ける。友人の友人が肥満になったり、不幸になったり、あるいは幸福になるだけで、あなたはその影響をもろに受けるのだ。

「友だちは選びなさい」と子供の頃言われた記憶があるが、それは正しかったわけだ。幼少の頃に友だち選びに失敗すると「20世紀少年」のように世界滅亡の危機にまで瀕してしまう。友だちを介して、自分の人生の記憶は蓄積されていくのだから、出来ればそれはポジティブで世界にとってなんらかプラスになるものであって欲しい。