Keep My Word

旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

フローズン・ダイキリ

バイクの運転手のサンボは37歳で四児の父親だ。
アンコールワットの遺跡を回るためにほとんどのバックパッカーは、バイクで移動することになる。
彼はたまたま僕が空港から乗ったバイクの運転手で、その押しの強さに負けて二日間のアンコールワットの遺跡を回るためにドライバーとして雇った。

今だからこそ思うが、最初から僕は彼には格好のカモとして映っていたに違いない。
日本人で一人旅、それにタイから安価なバスではなく飛行機で来たということで金は持っていると思われたのだろう。

バンコクからアンコールワットのあるシャムリアップまではバスだと所要時間10時間ほどで、料金は800円前後だ。それに比べ飛行機だと2万円ちかくもする。
うーん、今から思うと何ゆえに飛行機をチョイスしたのか?

なんとなく強迫観念のようなものに駆られて、飛行機に乗ってシャムリアップに行ってしまった。もちろん、そのおかげで旅の運命を決定され幾人かの人々の貴重な出会いはあった。

サンボの調子の良さは最初から顕著だった。
僕もかなり警戒はしていたが、アンコールワットにいるとことでずいぶん浮かれた気分だったし、それに物価の安さがものを言い、なし崩し的に彼のいいなりに近い形で過ごしてしまった。

ディナーには彼のお勧めのローカル食堂に行き、カンボジア流の鍋のようなものをたらふく一緒に食い、ビールをしこたま飲んだ。
もちろん、彼は当然のように同席し僕以上に飲んだ。
「こいつ、こんなに飲んでバイクの運転はできるのか?」と思っていたが、案の定帰りの道でカーブを曲がりきれずに転倒した。
今でもそのときの傷は残っているが、たいしたことなくて本当に良かった。

それでも懲りずにサンボは「ノー・プロブレム。ノー・プロブレム」と繰り返し、ふらふらとホテルまで運転していった。

翌日も前日と同じように昼食を食べるにも休憩を取るにも、はたまたプノンペン行きのボートのチケットを取るにもサンボは容赦なく介入し、自分がコミッションを取れる店を紹介した。
僕も学生の頃とは違い、そういう仕組みにいくぶん寛容になっていたので、明らかに法外な値段でない限りは素直に従った。

日本という国は僕のあずかり知らないところで搾取する側に回っており、いくらか余計に支払うのは何となく義務のような気がしていたのだった。
サンボがいくら僕から儲けたかは知らないが、支払った全部の合計なんてたかが知れている。

彼は口ではひたすら「おまえに楽しい思いをしてもらいたいから色々と世話を焼いている」と言っていたが、ほんと口の軽い男だった。

そんなこんなでこれほどまでに経済的な格差がある両国人がまともな関係を築くことなど、不可能に近いことなのかなどと考えながら、とあるバーに入った。
そこにはビリヤード台があり、一人のカンボジア人がプレイしていたので、一緒にゲームをしようと言って8ボールを始めた。

聞くところによると、彼はこのバーのバーテンダーで名前をソニーと言う。
なんとも覚えやすい名前だ。
それになんとも人懐こい笑顔で笑う。

何ゲームもソニーとプレイし、ひたすら負け続けた。
勝てるチャンスは何度もあったが、ラストショットが入らず負けた。
正直、負けるのも楽しかった。
ソニーはほんとに気持ちのいいやつで、一緒にいて気が楽だった。
英語は片言だったが、その笑顔が良かった。

僕は何杯ものビールとともに戦い、ゲームに負け続けた。

夜も更け、僕はさすがに酔いが回ってバーの椅子に腰かけた。
するとソニーがドリンクをおごってくれた。
特製のフローズンダイキリを作ってくれ、また何杯かは店のスタッフがおごってくれ、ますます夜は更けた。

挙句の果てにはあと少しで店を閉めるから、一緒にディスコに行って踊ろうと誘われた。
しかし、翌日は朝の五時に起きてプノンペン行きのボートに乗らなくてはならない。丁重にその誘いはお断りした。

両国の経済格差などを考えると、僕は彼らにドリンクをおごられるべき側の人間ではないのかもしれないが、そんなことは無意味な話だった。
お互い気持ちよくゲームをし、よく笑いよく飲んだ。
気持ちのいい夜だった。

僕は最後には千鳥足になりながらも、そのバーをあとにした。
「サンキュー」とソニーに別れの挨拶をすると、「サンキュー、トゥー」と言われて笑顔で送り出された。
旅の始まりにしては、上々の滑り出しだった。