『ひとつの場所にいると、やがて嫌悪感がやってくる。そうなると、その土地を離れないとだめになる』
ジム・ジャームッシュの長編処女作にあるセリフだが、実際、そのような生活が可能となると、その嫌悪感の先にあるものを見たくなる。
きっとその嫌悪感の先に生活があり、人々のリアルがある。
表面だけをなぞるような旅に意味はない。その先にある、ドロドロとした人間関係や、醜悪な人間性などのもっと先に、この長い人生を生きるヒント、そのきっかけのようなものがあるのではないだろうかと思う。
生活するというのは、総体的に楽しいものではない。
毎日、違う場所に行き、違う風に吹かれ、違う人々と交じり合うほうが、それは楽しいに決まっている。
そういう旅はもうすでに散々したので、今はずっとひとつの土地に留まり、異国の人たちとなるべく接して、彼らのことをもっと深く知りたいと思う。
人はよく人生を旅に例える。
だが、それには違和感が残る。
人生はどこまでいっても、日常であり、旅は非日常の連続だ。
旅は割り切れる感情の連なりであり、人生は割り切れない感情の塊だ。
切っても切れない人間関係が人生では一番大事であり、旅の人間関係はいつでも切れる。そして、旅では新しい非日常のなかへと埋もれることが出来る。
もちろん、このまま一生、メキシコシティに住むつもりもないし、ブエノスアイレスにも住むつもりもない。それでもなるべくその土地で知り合った人たちとの関係は大事にしていきたい。
ただ、やはりフェアではないとは思う。
自分はいつでも脱出可能な生活者だ。例えば、その国に何かあったら、違う国に行って、新しい生活をいつでも始めることが出来る。
築き上げた人間関係も時間とともに廃れ、さびれて、彼らもすっかり自分のことを忘れてしまうかもしれない。それでも、やはり同じ時間を共有しているあいだは、出会いを大切にしたいとは思う。
今まで彼らが自分の人生を明るく照らしてくれたように、自分も少しは彼らの人生を明るく照らせればと願っている。