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旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

老いるということについて:太陽と闇

最近、「老い」というものを意識している。それは別に自分が老いたというわけでもないし、老いを怖れているわけでもない。むしろ、「人はどのようなときに老いるのか?」という観点から興味があるのだ。

ここブエノスアイレスでは、老人は元気だ。少なくても1年半以上、滞在している外国人の目から見ると、めちゃくちゃ元気に見える。街中を歩いていても、仲良くおじいさん二人で肩を叩き合いながら談笑していたり、近所のキオスクと呼ばれる雑貨屋には毎日マテ茶を飲みながら、椅子に座って談義をしている老人たちがいる。

そして、タンゴを踊りに行くミロンガという場所でも、おじいちゃんたちは我が物顔で、若くて綺麗な女性をリードして踊っている。どれも自分が10年以上住んでいた街である世界最大の都市である東京では見られなかった光景だ。東京では40代以上になれば、金を払わなければ若くて綺麗な女性には見向きもされないだろう。べつにそのこと自体に異議を唱えるわけでもない。だが、この事実から考えさせられることは二つある。

日本ではあまりに実年齢を過大評価している。
「年長者を敬え」という社会通念が強烈に存在し、初対面の相手に対して、年齢を訊かずには話しを進めることが出来ない。なぜなら、相手にたいして敬語を使ったほうがいいのかどうか早急に判断する必要があるからだ。彼らが実際に敬うべき存在であれば、それはそれで通用し、ある程度の幸福は担保できた。しかし、今は彼らが持っている技術や見識が、テクノロジーとネットに変わり、彼らにそれほどの存在価値はなくなってしまった。

少なくても以前ほどの価値はない。
むしろ、年だけ取っている分、敬語で接する必要があり、同世代の人と比べて、付き合う価値がない無用の長物と化している場合が多々ある。そうして、また残念なことに皆こぞって老人になる運命なのだ。今、我々が彼らに抱いている感情は、数十年経ってそのまま我々に還ってくる、残酷なほどの現実感を持って。

そして、もうひとつの問いは、「我々は年を取るこという自体認めてはいるが、老いることは認めていない」ということだ。日本でも田舎に行けば、彼らは老いることが出来、「気のいいおじいちゃん」という立場を確保できるかもしれないが、少なくても大都市では老いることに価値がない。若さを保つことに最大の価値があるのだ。美魔女、熟女などの単語は裏を返せば、所詮は「年の割に若さを保っている」という程度の浅はかな価値観の裏返しにしか過ぎない。

人はもしかしたら、老いを否定したときに老いてしまうのかもしれない。ブエノスアイレスのおじいちゃん、おばあちゃんが元気なのは、彼らは立派に年を取っていくからだろう。腹は出ているし、髪の毛は真っ白だし、頭は禿げているかもしれない。でも彼らは年を取ること自体にはとても肯定的に見える。年を取ることへの弊害を認め、立派に彼らは年を取っていく。そうして、いつも元気一杯で傍目からは、「老い」を感じさせない。

若者に迎合する必要もないし、そのことに価値すら感じていない。彼らには彼らのコミュニティが存在し、そこでの存在価値が彼らにとって一番重要なのだろう。ある意味、古き良き日本の「村社会」と似たようなものかしれない。ここブエノスアイレスは、東京などに比べるとまだまだ田舎なのだ。

老いは東京では静かに忍び寄ってくる恐怖と畏怖の対象だが、ここブエノスアイレスでは太陽の光を燦々と浴びながら、ひょっこりと陽気にやってくるのかもしれない。そうして、小さいことに気を止めずに彼らは毎日陽気にマテ茶を飲みながら、政治や経済を罵りつつ、大きな笑い声を立てて元気に生きていく。

※2013年は毎月1回、1日更新を目指します・・・目指します!