日本時間の朝4時からいよいよワールドカップ決勝戦であるアルゼンチン対ドイツだ。 ここメキシコではすでにワールドカップ自体どうでもいいことのようになっているが、FACEBOKで見るアルゼンチン人の友人たちはキチガイのように盛り上がっている。
アルゼンチンには心の底から勝って欲しい。 なにしろ、ほかにいいことなんてひとつもない国だ。
サッカーぐらいでしか世界一にはなれない。 でも、サッカーで世界一になれるのであれば、他に代えがたい価値もあることも事実だ。
アリとキリギリスで例えると、キリギリスしか住んでいない国、それがアルゼンチンだ。
思い返すと、色々とひどい目にあった。 どれも人的要因によるものだ。キリギリスが国民の99.9%を占めているから、それも仕方がない。「働く」ということが彼らのOSのなかには組み込まれていないのだろう。
でも、不思議と嫌いにはなれない。 世界にもこういう国のひとつやふたつあってもいいと思う。
球を蹴っている人か(サッカー)、踊っている人(タンゴ)しかプロ意識が高くないのかもしれない。アルゼンチンが今日勝てば、その他のアルゼンチン人はますます増長して手が付けられなくなるかもしれない。 (中南米、南米におけるアルゼンチン人の評判は最悪だ。自分もまさかこんなに嫌われている国とは思いもしなかった)
オランダに勝った瞬間、国民は一体となり泣き叫び、勝利を喜び合った。 たかが球蹴りだ、されど球蹴りでもある。
これほどまでに真剣に、神妙にサッカーを応援出来るのであれば、その真剣さをもって自分の仕事に取組めば、この国の経済は飛躍的に向上するのではないかとさえ思えてくる。サッカーと政治の話をしている暇があれば、もっと働けとも思う。
アルゼンチン人を見ていると、人間にとっていかに教育が重要かが分かる。 やはり人間は教育をしないと、猿になる。とくに男にはしつけが必要だ。
サッカーには野性が必要なのかもしれない。 だが、ドイツサッカーはコンピューターのごとく、精密に計算され構築されたサッカーだ。
野性が勝つか、現代最高峰のモダンサッカーが勝つか。 言い換えれば、猿が勝つか、人間が勝つかという話なのかもしれない。
これでアルゼンチンが勝つと、ますますアルゼンチン人は仕事をしなくなり、「自分たちは世界一」という間違った思い込みのもと、どんどん人として品格も失われていくかもしれない。努力をしないくても、戦術メッシという1人のスーパーサイヤ人がいればいいという考えのもと、ほかに頼るメンタリティーをどんどん増長させていくかもしれない。
それでもいいのではないか。
サッカーは少なくても世界で一番か二番で、世界で最も権力を持っていると言われるローマ法王もアルゼンチン人だ。でも、経済破綻寸前の国でもある。出来の悪い冗談みたいな国だ。
彼らは何もしなくても、その素晴らしい容姿で人を惹きつけ、肥沃な国土のもと、何もしなくても立派な暮らしが出来た。産業革命やイノベーションからは取り残されても、まだ豊かな国土がある。
そして、そこにはサッカーがある。 彼らが自分たちの国を誇る理由は十分にある。
ここまで来たらワールドカップにも優勝にして、それから派手に経済破綻でもして、世界中の話題を今後一ヶ月に渡り独占してもらいたいものだ。本当になんてお茶目な国に住んでしまったのだろうか。
今度、アルゼンチン人の友人に会うときは、「ワールドカップ優勝、おめでとう!」と言えることを心より祈っている。