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旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

悪意のガンガーカウンターとSMバー:人は平気で嘘をつく

世の中には、「絶対悪」というものが存在する。 だが、彼らがこの世の中を特に悪くしているとは思わない。

きっと、その周りにいる人たちが、彼らと戦うことなく、彼らに付け込まれて、自分の良心を手放してしまうから、世の中の歯車は少しづつ狂っていくのかもしれない。

村上春樹の「海辺のカフカ」に出てくる猫殺しのジョニーはきっと、そうやって彼らを自分の世界に取り込んでいたのだろう。

なぜか自分の周りには、時々とんでもない悪人と思えるような人たちが出てくる。特に仕事関係の人たちだと、本当に気が滅入る。むしろ、仕事関係の人たちではないと、絶対に彼らと積極的に関わろうと思わないから、彼らと戦う機会があるのは、仕事を通してなのかもしれない。

もちろん、自分が絶対的な善人でもあるとは思っていないし、「世界平和」のことをいつも考えているわけでもない。でも、きっと世の中には善悪どっちつかずのスタンスで生きている人がほとんどだと思う。

ニューヨーカーのスタッフライターであるマルコム・グラッドウェルの本には、「人は遺伝よりも育つ環境に左右される。特に思春期では両親の影響よりも、周囲の友人、特にちょっと年上の友人に影響される」と書いてあった。

誰だって自分のことが一番可愛いし、お金持ちにだってなりたいだろうし、美人な奥さんや金持ちの旦那を見つけて幸せに暮らしたいだろう。でも、きっと世の中にはそういうベクトルで生きているのではなく、ひたすら人を貶め、傷つけることが生きがいの人たちがいる。それが自覚的な場合はまだましだが、もっとも手を焼くのは無意識にそれを行っている人たちだ。

yayoi2014メキシコシティ草間彌生の展覧会を見に行った。彼女の世界はとても純粋でどこまでも美しい。だから、きっと気が狂ってしまったのだろう)

周りにそんな友人、知人がいたら、人生最悪だろうなとは思う。 特に思春期にそういう人たちと出会うと、その後の人生、壊滅的な影響を受ける。

べつにヤクザな世界の話ではなく、日常的に人は人知れず、人の不幸を願い、彼らは日夜自分たちの世界の仲間を増やそうと画策している。人が人を信用できたり愛し愛されることが出来るのは、周りにそれに値する人間がいる場合に限る。一方的な愛は多くの場合、両者に破滅的な結果をもたらす。

またどんなに愛されて育っても、人は「絶対的な悪」を持つ人々に対して、限りなく無防備だし、最初から騙そうとしている人間に対抗できる手段は限られている。

オスカー・ワイルドが描いた「幸せな王子」は彼自身は本当に幸せだったのかもしれないが、彼らのような無垢の人々は結局のところ悪を増長させ、「人はたやすく騙される」という価値観を人々に植えつけるのに一役買っているのかもしれない。

ガイガーカウンターは目に見えない放射能線量を測れるが、近未来ではきっと「悪意」を測れるガンガーカウンターなんかがきっと重宝されるのだろう。でも、最大の問題は悪意が目に見えるようになっても、「あの人には自分しかいない」「あの人はそんなに悪い人ではない」と悪意を持った人々に引きづられて人生台無しにしてしまう人々がいることだ。

善意は一過性かもしれないが、悪意は伝染する。 なぜなら善意は、その行為そのもので完結しているが、悪意は常に対象を必要するからだ。

そうして、たちの悪いことに「アメリカン・サイコ」に描かれたように、サイコパスは一見とても魅力的だ。

美しい花には毒がある。 その毒は少しづつ、周りの人間を惑わし、世界に悪影響を与えていく。

どうして悪というものは、これほどまでに中毒性があるのだろうか?

別に一夜ですべてが変わるけではないし、変えることも出来ない。 さらに別にこの世から悪が消えるわけでもないし、正義は本当にとても弱くて脆い。

せめて嘘や「悪いこと」をしてしまったときは良心の呵責に悩まされ、因果応報で自分がその報いを受けると、自分自身を戒めておきたい。世の中の正義や平等はからっきし説得力もなく、挙句の果てに我らの大臣はSMバーに繰り出してそれを経費にしてしまう世知辛い世の中だ。 (SMバーに行くのは個人的にべつにどうでもいいけど、その領収書を見つけて、告発する側に純粋な悪意を感じる)

この世の中で一番怖いのは、つくづく「平気で嘘をつく人々」だと思う、今日このごろだ。