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旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

グーグルの功罪:行動する勇気を奪う惰性

多方面から日本を飛び立って、海外に留学する若者たちが減少傾向であると耳にする。

その是非はともかく、ある意味致し方がない部分もある。

日本は先進国に追いつけ追い越せとやみくもに突き進んできたが、電化製品や車などの工業製品だけではなく、漫画や映画など文化面でも今や欧米から注目される存在となった。

知り合いのフランス人とも普通にドラゴンボールの話題で盛り上がるし、スイス人などからは「最近の北野武の映画はどうだ?」というような質問も受ける。それにベルリン映画祭は宮崎駿が金獅子賞を受賞し、アニメの地位を不動にしたこともヨーロッパには大きなインパクトを残した。

そして、インターネットにより海外の情報は簡単に手にすることが出来るようになった。

こうなってくると、この住み心地のいい日本を離れるメリットよりはデメリットが大きく感じるのも理解出来る。しかし、人生はメリット、デメリットで計り得ないものだ。そこを大きく誤解した人たちがグーグルという検索サービスのせいでさらに増えたように感じる。

物事の是非をグーグルが決めてくれるかのように、なにか新しい品物を買おうと思ったら、口コミサイトを検索して該当製品に対する人々の評価を追い求め、おいしいものを食べようと思い立ったら、そのレストランをグーグルで検索してみて、評価を確認する。

それと同じように留学しようと思い立っても「留学 メリット デメリット」などと検索して、グーグルにまず判断を仰ぐのだろう。きちんと自分自身が確立していない頃は、特に他者の評価が気になる、これは仕方がない。だが、ネットに載っている情報はすべて他人の評価にしか過ぎないということを自覚していないと、物事の選択を誤ることになる。

「情報」という言葉は以前はあくまで自分自身を含まない第三者からの意見や主張、あるいは物事の描写に該当する言葉だったが、今はいつのまにかどこそこの見ず知らずの人に自分自身を投影し、その意見を「自分ごと」として解釈し、情報がいつまにか血の通わない無機質なものから、なにやら人肌を感じさせる暖かいものへと変化してしまった。

だが、言葉の定義は変わっても物事の本質は変わらない。

情報の本質は、あくまでそれは他者に所属し、本当のことを知るためには実際にそのことを体験する必要がある。これからは若者にとってますます生きづらい世の中になるだろう。なぜならば、彼らの特権の一つは「無知であること」だったのが、今はそれさえも許されないからだ。グーグルのせいで無知であることは罪となったのだ。

あらゆる物事を始める前に彼らは無知であることを止め、グーグルに訊く。

そして、じつはその行動自体がさらなる無知を助長する怖れがあることも知らずに。

グーグルでさんざん検索したあとは、行動する必然性や勇気すらも奪ってしまう惰性が頭をもたげる。そうして、若者は海外に出ず、家にひきこもり、大人に向かって物知り顔をする。あたかも彼らがグーグルに訊けば、大人たちの問題も解決できるかのように、にたりと笑いながら僕らの前で不遜な態度を取る。

最近はグーグルで検索する労を惜しむ若者たちも多いらしい。彼らにとってみれば、すぐグーグルで調べれば分かることをわざわざ調べる必要もないと切り捨てているのだろう。しかし、行動しない人生に一体何が残るのだろう?

インターネットで便利になったと喜んでいたのも束の間、いつのまにか僕たちはすっかりそれに踊ろされている。あらゆるものを道具や糧とするぐらいの強靭な精神性を持っていないと、すっかりやる気を削がれる環境が整ってしまった。

自分自身が幸運だと思うのは、こんなご時世に思春期を送ることがなかったからだ。もし、今18、19の若造だったら、、すっかり家に引きこもってサッカーゲームで世界中の人たちと対戦して、世界との「つながり」を実感して満足していたかもしれない。

英語が全く話せないくせにユーラシア大陸を横断して、陸伝いで日本からスコットランドまで行こうなどと絶対に夢にも思わなかっただろう。

ああ、馬鹿で良かった。

そして、それが許容される時代に思春期を送れて幸運だった。

(当時はそんなことこれっぽちも思わなかったが・・・・・今の彼らが僕と同じように月日が経てばそう思える世の中になればいいけど)