最近、ヨーロッパの人たちと話す機会が多々あり、そして彼らの多くは複数言語を話すので、話して色々と気付かされることが多い。
(とあるミロンガで知り合ったスイス人二人組みです。彼女たちは英語、ドイツ語、フランス語、それにスペイン語を話します)
ただ、もちろんヨーロッパ内にも格差は確実に存在するし、また同じ国でも意識的に英語を身に付けてないと、きちんと話せない人も当然多い。(もちろん、英語がほとんど通用しない南米に比べれば、その割合はかなり低いと思われるが)
また最近知り合ったフィンランド人は英語はもちろんのことながら、スワヒリ語(アフリカの言語)も話すとのことだ。(なにせ、それでPhDを取った強者です)
つくづく世の中は広いと思う。
本当に英語はインフラになってきていると感じている。それでもやはり、英語公用語化や強制的にTOEICの点数を取らせるような方策はどうかと思う。ぶっちゃけ、いい大人がアホじゃないかと思う。
学校の日本の英語教育は改革は必要だが、それ以降に関しては個人の責任だ。英語を身に付けるか、身に付けないかは人生の選択の問題であって、仕事どうこうよりももっと幅広いフレームで語られることだと思っている。
英語が先ではなく、「自分の人生をどのように生きたいか」が先であり、そのなかに英語が含まれるのであれば、人は死ぬ気で勉強して習得すべきだ。
何かを身に付けるには強制力は必要だ。だが、それは自分からそれを引き出すものであり、外部から強制されるべきものではない。いかに自律した学習者になるかが、語学習得の鍵であるのだから。
さらに突き詰めて考えると、今後はそのような人材しか生き抜いていけないことだけは確実だ。人から強制された時点で、すでにその人は人から後れを取っていることは確実だ。そして、それを追い抜くのは至難の技である。だったら、最初から自分で自分を強制して、やるべきことをやっておくほうが後から楽になる。
肥大化した巨大企業の手足となってこき使われて、用なしになったら捨てられることを防ぐためには、いまから自分が出来ることをやっていくことに限る。(これは自分で自分に言い聞かせていますけどね・・・なかなかねえ)
グローバル時代とは、結局のところ巨大企業と個人の時代ということだ。安い、早い、うまいの巨大企業に対抗するにためには、個人のスキルをあげて、彼らがカバーしきれない分野へと進出するしかない。
もう終わった右肩上がりの経済成長の幻想を早く諦め、個人で生き残る戦略を描いて、粛々と実行していくことが今の日本人に求められている。それを今のうちに自分に強制できるか、他者からの強制を待って動くかで趨勢が決まってくる。
昔からよく言われているけど、「逃げるなら早い者勝ち」だ。そうして、嫌々ながらも語学の勉強をし、自分の牙を研いでいたほうがいいかと・・・・スペイン語の宿題、早く終わらせないと・・・・