Keep My Word

旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

35歳、立ち止まって考えたこと。

ふと、思い立っていつも通る道ではなく、大きな公園を通って、喫茶店で朝食を食べに自転車を走らせた。

のんびり歩く人、短パン半袖でジョギングをする人、犬を連れてジョギングする人、犬に連れられてジョギングする人、そこにはいつもとは違う風景が広がっていた。

公園の外の道には駅へと急ぐクールビズで身を包んだサラリーマンの人たちが見える。公園組の僕たちは、そんな彼らから外れたところに位置し、各々が好きなことをしている。なかにはブリーダーなのか、犬を10匹近く連れた中年女性もいる。そして、なぜかジーンズを履いてジョギングをする酔狂な小学生もいる。いつもの道を一歩踏み外せば、そこには当たり前のようにいつもと違う風景が広がっている。

人生を1つの直線と捉えると、きっと僕たちの人生の成果はそれほどたいしたことがないのでは、と思った。本当に大事なことや印象的な出来事は、その直線的な道から少し外れたところにあるのかもしれない。

あと30年経てば、自分の人生にも終わりが見える頃だ。その頃になって、自分が得た社会的な成功や金銭的な成功に頓着しているのだろうか。またそれを得ていないと仮定しても、それを至極残念なことと思うのだろうか。

人生には目的や目標が合ったほうが結果は出やすい。しかし、それを得た先に何があるのだろう。成果を得ることはとても重要なことだが、その成果自体にはそれほどの意味がないのではないか。ひとつの結果として、なんらかの成功を得ることは重要なことだが、人生に喜びや驚きをもたらしてくれるのは、その過程で見る風景や人々との関わり合いだ。それらを犠牲にしてまで、何かを成し遂げたいとは思わない。

いつもとは違う、なんらかの見識をもたらしてくれる風景を見ること、それを心がけているほうがより実りの多い人生になるだろう。

公園のなかから見える風景は、いつも通っている道より緑が多く、空気も澄んでいた。こんな当たり前のことにも気づかずに、今までそこを通り過ぎていた。ただ単に公園を通ることが遠回りになるという理由で。

人生なんて言ってしまえば、壮大な寄り道にしか過ぎない。死までの壮大な回り道。急ぐ必要なんてないのだ。疲れたら立ち止まればいいし、辛ければ諦めればいい。すべてを犠牲にしてまでも得ることができることは、本当に僅かなことだ。それよりも少しでも清々しい風を受け、緑豊かな景色に身を委ね、きれいな空気を吸っていたい。

きっとこうして少しづつ何かを諦め、その代わりにいくばくかの見識を手に入れることが年を取るということなのかもしれない。ならば、いっそのことたくさん寄り道をして、長生きしようではないか。そうして得た見識が、いつの日か人の役に立つのかもしれない。またもちろん、立たないかもしれない。それは自分の人生の範疇外の出来事だ。

少しでも多くの寄り道をして、見識を広め、自分自身の可能性を最大限まで広げる。それで十分だ。その結果、何かかが起きるかもしれないし、何も起きないかもしれない。自分自身が正しいと思ったことのみ行なえる、そういう立場に在るだけでもありがたい。

自分自身が完璧だと思える写真、完成だと思える文章、完全に納得できる仕事、そんなもののうち1つでも成し遂げられたら嬉しい。と同時に成し遂げられなくても、残念には思わない。そのようなものが完成できる可能性を示す、それだけでも十分だ。

僕は一人の創り手であり、素材は自分自身の人生そのものだ。それを分かりやすい形でアウトプットすることは心がけるが、それそのもの価値については無頓着にならざるを得ない。願わくば、多少なりともほかの人たちにとっても価値あるものを創造出来ればと願っている。