Keep My Word

旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

寝苦しい夏の夜に

最近、本を読まなくなった。
以前は、最低でも一週間に二冊程度は読んでいたが、ここのところせいぜい二週間に一冊程度しか読んでいない。

ただ頻繁に本屋には行く。
文庫コーナーや新刊のコーナーで足を止めては、色々と本を物色する。そして、手に取ってはまた本棚にそれらの本を戻す毎日が続いている。本を読むこと自体に倦み疲れているのだろうか?

知らない作家よりは、知っている作家を安心して読む傾向がここのところ顕著になってきている。だが、ある作家の本をたくさん読むと、もうその作家の本を読む必要性が感じないようになってしまった。繰り返し読みたいと思うような作家は、すごく稀だ。村上春樹村上龍なんかは高校生の頃から読んでいるのに、いまだに飽きないが、それ以外の作家はそうはいかない。 ある時点で、なんとなく分かってしまう。テーマやスタイルを変えようが、作家が言いたいことは常に一貫している。それが見えてしまうと、飽きてしまう。

ひとつひとつの著作をパスルのピースに例えると、分かりやすい。その全体のテーマが広大であればあるほど、文学性は高まり、パスル全体の大きさは大きくなる。そして読み手にとっては、いつまで経っても完成図が見えないので、ついついパズルのピースを付け加え、全体を理解したくなる。それは絵画や映画にも当てはまると思う。

芸術という漠然としたものと同じように、人生をパズルに例えるとどうだろう。
自分のそのパズルは、そろそろその全体が見え始めている。そういう年齢になってきていることを感じる。それと同時に、それがひどくつまらなく思えてしまう。なにをどうしたいのか確固たるものを持つのはいいが、パズルの全体が見えるのには、まだ早すぎる。今更、ひとつのひとつのピースをはめ直すことは不可能だし、その必要も感じない。

だが、最初に意図していたものとは、ずいぶんと違ってきている。それは妥協や怠惰なことと、ひどく密接に結びついている。ひとつひとつのピースに本当はもっと時間をかけて、はめていけばいいのだと思う。どこかで割り切りやあきらめが入り、シャープなエッジが効いたピースではなく、まん丸い気の抜けたピースをはめ込んできた気がする。

自分の完成にもっと時間をかけるべきだった。
自分探しなどという陳腐なことでなく、自分自身の人生を通じて、いかに他者や社会に貢献できるかを真剣に考えることが必要だったのだろう。その場その場の判断で、漠然とここまで来てしまった。それは歳を取れば取るほど顕著になる。初めの頃にあった謙虚さはなくなり、自分に対して傲慢とあきらめ、他者に対しての無関心さが合わさり、判断が鈍くなる。
そろそろつぶしが効かなくなる年齢だし、なにかをやり遂げるにはもうそれほど時間はない。以前は行動さえすれば、物事は前進すると思っていたが、それが通用する歳でもなくなってしまった。判断の精度やディテールにこだわりを持たないと、すごく陳腐なパズルが完成してしまうことになる。

「自覚されたことはすべて正しい」とオスカー・ワイルドは言った。
そして、自覚することほど難しいこともない。自分が築き上げつつあったパズルを自覚を持って、どのように変更するかはその自覚の精度と深度にかかっている。