Keep My Word

19歳から旅を始めて、スコットランドで英語を学び、アルゼンチンでスペイン語とタンゴを学び、メキシコではサルサをかじり、オンライン英会話/スペイン語スクールを運営している男のブログです。海外滞在歴10年、50カ国ほどぶらぶらしました。

はじめはみんなビギナーだった・・・・・・

三十を過ぎてからテニスを始めた。きっかけは今となっては定かではない。迫り来る老いへのささやかな抵抗だったのかもしれないし、単純に運動不足を感じていたからかもしれない。それまで一切テニスには興味もなかったし、プレーしたこともテレビで試合も見たこともなかった。ただ突然、ふとした瞬間にやってみようと思い立った。

そうして、5年が過ぎた。今ではごく平均的なプレイヤーとなり、そこそこ楽しめるくらいにはプレーは上達した。特に特別な努力をしたわけではない。週最低1回テニススクールでプレーし、週末はテニスサークルのようなもの行くようにしてなるべくテニスをする機会を増やしただけだ。トーナメントに出て勝ちたいとか、ウルトラサーブを入れたいなどという野心もない。一緒にテニスをプレーする人たちと楽しくプレーできればいいという、ごくささやかな望みしかない。

テニススクールでは何人ものコーチに教えてもらったが、「教え方が上手い」と思うようなコーチには2人しか出会わなかった。初めてテニスを教えてくれたコーチと、次にテニスを教えてくれたコーチだ。最初の出会いが良かったからこそ、続けてこれたのだろう。

テニスコーチになるような人たちはみなテニスは当然上手い。すこぶる上手い。それでも教え方はとても下手な人が多い。誰もがプロを目指してプレーしているわけではないが、彼らの中の完成形はどうしてもテレビで見るようなプロテニスプレイヤーになるらしく、それを引き合いに出してよくダメ出しをされた。

そもそもテニスが上手くないからスクールに通うのであり、そんなに上手ければスクールなんて行く必要はない。人それぞれ身の丈にあった目標を抱いており、自分のなかの理想形を押し付けられても困ってしまう。一番いやだったコーチは、こちらが出来ないことばかり指摘し、それを無理やり矯正しようとするコーチだった。

「それが出来たら、始めからスクールなんて来ねえよ、バカ」と心の中で悪態をつきながら、仕方がなく彼の練習に1回だけ付き合った。当然、そんなコーチは生徒から人気があるわけがなく、彼のクラスはいつも閑古鳥が鳴いていた。こちらはあくまで金を払う側の人間であり、彼らは我々をエンターテインする必要がある。そんなシンプルなことですら、彼のような人間には理解出来ないらしい。

ずいぶんと前置きが長くなってしまったが、今挙げたようなことはすべて英語学習にも当てはまる。誰もがネイティブスピーカー並の英語力(=プロテニスプレイヤー)など目指す必要はなく、身の丈にあった目標を設定し、そこにたどり着くためには粛々と学習を続ける必要がある。

そうして間違いばかりを指摘するのではなく、こちらのスタイルを理解し、それに沿った教え方をしてくれる先生(=コーチ)を見つけることだ。スクールに通っているのだから、まずは「英語を上手く話せない」ことは前提条件となる。そのような人たちをどのように勇気付けて、間違いを怖れず話せるように導けるかは先生に懸かっている。

そうしてお金をもらっている以上、その時間はお金を払っている側にとって「楽しい時間」である必要がある。もちろん、ただ享楽的な楽しさではなく、「内から沸き上げるような喜びの感情」を共有する必要があるのだ。毎回そのような喜びがあれば理想的だが、実際そこまでたどり着くには多少時間がかかる。でも、方向性さえ合っていれば、やがてそのような時はくるはずだ。

テニスとは、ただラケットを振ってボールを打つというとてつもなくシンプルなスポーツだ。そして、そもそもあらゆるスポーツはごくシンプルな原理によって支配されている。サッカーはボールを蹴ってゴールを決めるスポーツだし、ゴルフは犬のように打ったボールを追い掛け回して穴に入れるスポーツだ。

それらと比べると英語は仕組み的には恐ろしく複雑だ。だが、複雑なだけに間口は広い。シンプルな仕組みのスポーツは圧倒的な優劣の差がついてしまうが、英語はそれほど目に見える圧倒的な差は出にくい。それに言ってしまえば、英語に勝ち負けは存在しない。自分が設定した目標に到達できるかどうかに懸かっている。

そういう意味では英語学習に似ているスポーツはマラソンかもしれない。粛々と自分が設定したタイムに向かって一歩一歩踏み出していくスポーツ。そこに美しさやカタルシスがあるわけではないが、ある種の自己満足に似た達成感が味わえる。

「コミュニケーションを成立させる英語力」という目標に向かって雨の日も風の日も、こつこつと一歩一歩マラソンランナーのように走り続けることが英語上達の一番の近道なのだろう。


(マラソンというスポーツを通して語られる村上春樹の哲学。体力があるからこそ、あれほど長大な物語を書き続けることができるのだろう。春樹さんが嫌っている三島由紀夫はボディビルを選び、あくまで自然体な春樹さんはマラソンを選んだ。どこか示唆的な事実だ)