Keep My Word

旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

人はみんなひとつのゴールを目指すべきであり、またそれもひとつの通過点にしか過ぎない

人は誰でも夢を描くし、当然自分ももっと若い頃はたくさんの夢があった。まずは世界を旅をしたかったし、そのために英語を話せるようになりたかった。そして、22歳になる頃にはある程度世界を見て、英語で不自由なくコミュケーションを取ることも出来るようになった。

それから、かなり迷走した。

それまであまりに生き急ぎ過ぎたたので、その先自分自身どのように生きていけばいいのかよく理解していなかった。仕事としてとりあえず「写真を撮る」ということを選びはしたが、一生の仕事としては不服だった。もっとうまく何かを表現したかったし、より多くのことを伝えたいと思っていた。

そうして30歳を過ぎる頃にソーシャルビジネスという仕組みを知り、そのアイディアに夢中になり、起業した。それでもやはり満たされなかった。留まることは苦手だ。常に僕は動いていたい。そうしてまた、去年日本を飛び出しパーマネントバケーション(終わりなき旅)に出た。

人はせいぜい数週間、数年単位で旅をするが、僕は数十年単位で旅をしたいと思っている。残りの人生、なるべく動きまわっていたい。人は100%満足するために生きているのではない。むしろ人は100%満足しないために、生きている。満足したら、もうそこで成長は止まるからだ。

とりあえずは飢えない程度のお金を稼げる仕事と、動けるだけの自由を手には入れた。もちろん、これがいつまで続くは分からない。しかし、今の状態が自分が思い描いた夢の人生かと言うと、そうではない。究極的には自分自身の存在にはあまり興味がない。ただこれから自分が何を為すかということに注目している。

時々、思うのだが、人生はなにか直線的な努力の産物ではなく、一瞬の決断によって大きく変化するダイナミックな曲線を描くものだと。

多くの人は無自覚に漠然と明日のために努力が必要だと思っているが、じつはそうではない。チャンスは一瞬しかないのだ。例えるならば、すべてのサッカー選手がゴールを目指してプレイするように、本当は我々はみんなひとつのゴールを目指して戦うべきなのだ。

それぞれの役目に忠実にいながら、いつかはゴールを決められるように日々鍛錬し、感覚を磨く必要がある。才能や環境に違いはあるが、それぞれの立場に応じたチャンスは必ずくる。そのときに迷わずにボールを打ち抜けるかが人生のキモなのだ。

そのような意味では人生はいたって平等だと思うし、不平不満を言う権利は我々にはない。一生に決められるゴールなんて、どうせひとつかふたつだ。そのことを自覚し、いかに心構えをしているかが勝負の分かれ目だ。

自分の人生を自己評価するならば、当然今までの人生はノーゴールだ。チャンスはあったが決められなかったゴールもある。それでも諦める必要はない。最後は体力勝負だ。必死に動いてパスを引き出し、スライディングタックルをかまして相手からボールを奪うことも時には必要かもしれない。

泥臭くていい、最後に自分が満足出来るようなゴールをひとつでも決めたい。