決断は受動的な行為だと思うことがある。
「決断する」というが、果たして我々には選択の余地が残されているのだろうか?
たとえば、自分自身の場合。
僕はスコットランドのエディンバラという辺鄙な土地に留学し、写真を志した。
時々、人に訊かれる。
「どうしてエディンバラに留学しようと思ったの?」とか「どうして、カメラマンになったのか?」ということをだ。
こういうとき、本当に返答に窮してしまう。
僕がエディンバラに留学すると決断したと仮定しよう。
だけど、本当の話自ら進んで決断するなんてことはしていない。
それ以外に選択の余地なんてなかっただけだ。
迷いのかけらもなかった。
それはあらかじめ決められていたかのように、ひどく当然の成り行きだった。
写真を志したのも、同じことだ。
単純にそれしかないと思って、突き進んだだけだった。
こうして、いくつかの自分の人生の転機を考えるに当たって、いかに自分が能動的に行動し、決断したか熟考してみる。
考えれば、考えるほど自分は受動的だったと言わざるを得ない。
僕が自分の直感に従わずに、ニューヨークに最初に留学したとしよう。
確かにそういう場合は、とても能動的な決断だ。
しかし、きっと僕の人生は大きく狂い、今のような人生は形成されていなかっただろう。
それが良いか悪いかなんて、分かるはずがない。
それも可能性としてあった、と思うがそれを選択しなかったという事実だけが残る。
こういう考え方に沿って、僕はいくつかの自分の人生の決断について考えてみた。
そうすると、ほとんどのシチュエーションで自分がまるで決断していないことに気付く。
僕はこうあるべきだと自分の信念に近いもの従い、生きてきた。
人は信念を持って行動する限り、決断をしないのかもしれない。
最も恐れるのは、自分が課せられた最低限の可能性の人生しか生きていないのでは、とふと疑問に思うときだ。
僕の信念とは、言い換えれば運命というやつかしれない。
運命には努力は必要ない。
それに付き従い生きることは簡単なことだ。
かといって、直感に従わずに生きるということは、その最低限のノルマである運命を全うできない可能性も孕んでいる。
今まで自分のことを行動的で決断力に富むという自己評価をしてきた。
多分、それは今となっては怪しい事実だ。
ここで重要なのは自分自身という素材だ。
自分に何が求められ、課せられているか?
答えることができない問いを抱えながら生きるのが、人生というやつなのかもしれない。