Keep My Word

旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

ジョナサンにて。

半年間でヘッドフォンが3組ダメになった。

どれも5000円くらいはするやつで、それほど荒い使い方をしていたわけではないと思うが、大抵の場合片耳がまず聞こえなくなり、最終的には両耳も聞こえなくなる。

だから、最近はどこに行くのもヘッドフォンをしていない。

それはそれで居心地のいい生活ではある。

日常のノイズがどんどん耳に入ってくるし、ぼーと歩いて車に轢かれそうになることもない。

 

オフィス代わりに使っている近所のジョナサンでもヘッドフォンを使わないから、隣人たちの会話が筒抜けだ。

 

何回か、「これは新興宗教の勧誘か!」というようなトーンの会話が耳に入ることがある。もちろん、それはほとんどの場合、新興宗教の勧誘ではなく、保険の勧誘、不動産の購入相談、会社間の打ち合わせだったりする。

 

どうして、新興宗教の勧誘かと思ってしまうのだろうと少し考えてみた。

 

その人たちの会話のトーンがどこか盲目的に何かを信じ切っている感が多分にあるからだ。そして、さらに彼らが信じているものが、自分の外にあるからだと思う。多くの場合、それが会社なわけだ。会社内でのヒエラルキー、社内政治、自分のポジションなど色々なものがそこに存在し、それが彼らの宗教となっているのだろう。

 

翻って自分が長く過ごした中南米に人々のことを考えると、彼らは他者など一切信用せずに、ひたすら自分自身のみ信じている。とにかく、物事の判断基準が自分自身だ。自分がいいと思ったものは正しいし、悪いと思ったのは悪なのだ。

 

だから、会社に働いていようと、「会社のために自分自身を犠牲にする。」なんて発想は皆無だし、よって遅刻もするし、汚職に手を染める人が後を絶たない。

 

彼らは自分自身のことが大好きで、どれくらい自分自身が大好きなのかというと、それはもう自分自身のことが大好きだという自覚すらないくらい、自分自身が大好きなのだ。

 

いわば、みんな自分教の信者だと言える。中南米はカソリック教徒が多いが、困ったことがあればみんな神様にすがり、何かいいことがあれば全部自分のおかげだと思っている節がある。

 

自分教の人はもちろん幸せだと思うが、会社教の人もそれもそれで結構楽しそうだから不思議だ。何かを信じるということは、それだけで人々に幸福をもたらしてくれるのかもしれない。

 

自分のような自営業者は、「何かを信じた時点で盲目になるのでアウトだし、かといって何かを信じないと物事前に進めることができない。」というジレンマがある。仏教のように中庸の精神がほど良いのかもしれない。

 

こうしてみると、世界には色々な宗教があると思う。

どの宗教も一長一短があるし、世界の見方は国によって、人の価値観によって左右される。

こんな個性のないどこにでもあるような東京のファミリーレストランでも色々なドラマがあるのだ。

 

きっと世界はみんなが思っているほど悪いところでもないし、またそれほどいいところでもないのかもしれない。ただそれだけのことだろう。