問題は前日から始まっていた。
夕食を作るのが億劫になったので妻と二人で外食に行こうという話になった。当初は面倒だから徒歩圏内のレストランに行く予定だったが、妻が「ヒルズのひつまぶしを食べたい!」と言い出した。
六本木ヒルズまで車で行けばすぐだったので、すんなり同意したが、「ヒルズまで車で行ったことあったっけ?」と妻が言い出した。よくよく聞くと、東京ミッドタウンのひつまぶしに行きたいことが判明した。ヒルズとミッドタウンを混同したわけだ。
そこでマイカーを繰り出して六本木に向かったが、その時に使ったのがトートバッグだったのが運の尽きだった。財布をそのトートバックに入れたままにして、翌日はいつも使っているリュックで大阪の施術会へと向かったからだ。
しかも、目黒のサロンで朝8時半から施術の予約が入っており、それをこなしてから向かう予定だった。自宅からサロンまで徒歩15分だったが、その行程の半分ぐらい歩いて、財布をトートバッグに入れたままのことに気づいた。財布には新幹線に乗るためのEXカードなるものが入っており、それがないと厄介なことになるかもしれない。幸いタクシーに乗れば間に合う時間だったので、ダッシュで自宅へと走って帰り、自宅にあらかじめ呼んでおいたタクシーでサロンへと向かった。(もちろん、すでに大汗をかいており、タオルで必死で汗を拭った。)
施術自体は滞りなく終了し、一路大阪へと向かった。直前にキャンセルが2件あったので合計5件の施術を終えて、山﨑さんのお家へと向かった。
半年前までは右半身が完全硬直だった山﨑さんのご主人は、もはや見かけは一般人と変わりがないほど回復していた。これは奥様のご尽力おかげに他ならない。ただ奥様は「このまま歩けるようになっても、みんな最初から歩けるくらい状態が良かったのではと言われるのが怖い!」とおっしゃっていた。
それはそう言われるだろう。
奇跡の回復なんて誰も信じないし、期待などしていない。
別に誰もがみんなのヒーローになれるわけでもない。それにその必要もない。
世の中の大半の人たちは死ぬほど努力をしても、決して日の目を見ることはない。山﨑さんの奥様のように、毎日のように介護をしても誰からも評価はされない。
そして、なんの希望がないまま疲弊していく。その姿が容易に想像できたので、たまたまその場に居合わせた自分が、月1回大阪に行って施術することにした。
山﨑さんの奥様にとっては、「あの松岡先生がわざわざ私たちのために大阪まで足を運んでくださる!」という思いがあるので、それがご主人の回復に大きく寄与する。楽な商売ではないが、たまにはいいこともある。
そういう色々な思いを抱えて、帰路へと着いた。新大阪駅に着き、まだ新幹線の出発まで時間があったので、ご飯を食べた。まずは刺身でもつまみながらと和食屋に入り、そのあと隣にあったたこ焼き屋へと入った。
そうして、久しぶりの明石焼きに舌鼓を打っていると目の前の席に座っている二人の女性の会話が耳に入った。
どうやら一人がもう一人にむかって、ネットワークビジネスの勧誘をしているらしい。それこそビフォーアフターの写真を使って一生懸命口説こうとしている。口説かれている相手は文字通り、目を泳がせていたが、それなりに興味はあるらしい。
世の中はどうしようもなく不公平だと思う。
お金がお金を生み、多くの不幸を元に少数の勝ち組を作り出すネットワークビジネス。別にもちろん、そのビジネス自体どうこう言うつもりはない。騙される方が悪いと言うのも一理あるし、楽して稼ごうと思うから隙をつかれる。
明石焼きを食べながら、ぼんやりと二人のやりとりをみていて、「なんだかな。」と思った。片や誰からも賞賛されずに完全な消耗戦である半身不随のご主人の看護に明け暮れる人がいて、その一方たこ焼き屋で一生懸命お金儲けを説く人がいる。
人生はシュールだが、やはり自分は誰からも報われない人々の側に立っていたい。その努力がいつの日か日の目を見て、安心できる日が来る手助けをする側に寄与したい。
朝から大汗をかきながら始まった1日だったし、そんなスケジュールにしたのは自分だし、綺麗事を並びたたても詮無きことだと思う。
世の中の多くの嫌なことや嫌な思いと無縁にいるためには、「軽さ」が必要だ。
毎月1回、半身不随の人のために大阪へ行くという思いを、毎月1回美味しい明石焼きを食べに大阪に行く、そんな脳内変換をすれば、重さが取れて軽くなる。
それにもしかしたら、ネットワークビジネスで稼いだお金で両親の介護をしている方々もたくさんいるだろう。お金に色はない。でも、世の中の大半の人々が、お金がお金を生むシステムよりも、日々汗を流している側に属している。
自分の人生を振り返ったら、お金があっとたきもなかったときもあった。でも、どっちのときも幸せだったと思う。お金なんて、そんなものだろう。
来月はいつ大阪で美味しい明石焼きを食べにいこうかと考えている。