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旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

日常生活にある戦争と安保問題について

2ヶ月日本にいるあいだに新幹線で71歳の男性が焼身自殺をして、一人の女性を道連れにし、国会では辻元清美議員が絶叫しながら安保法案が可決された。

日本ではあらゆるサービスが高いレベルを保っており、何事もスムーズに進むが、そのことへの歪みがこういう社会的な問題としてあぶり出されるのかもしれない。中南米に4年ほど住んでいたが、彼の地では「生きる」ことはそれなりに努力を要する。治安はすこぶる悪いし、気を抜くと強盗やひったくりにあうわけだ。

物事がなにもしないでうまくいくということはありえない。だから、「生きる」ことにとてつもない忍耐力を要する。生きるのに忙しくて、自殺する暇もないほどだ。以前、メキシコ人に「日本では自殺が社会的な問題になっているけど、メキシコ人は自殺するの?」と訊いたら、「恋愛沙汰で自殺する人はいるかも」という答えが返ってきた。

怒号が飛び交う国会と、この平和な日本が同じ民族によって運営されていることにどこか異常さを感じる。

常に予定調和的な解決を望み、喜怒哀楽を出さず、感情を抑えて行動しなければいけない社会。 ラテンの世界は真逆だし、すこぶる住みにくい部分もあるが、行くと精神的な部分で癒されることが多い。だが、肉体的には当然、日本にいるときより数倍負荷はかかる。

日本にいると、「集団のなかの自分」をどうしても感じるが、ラテンの世界は「たった一人の自分」でいることができる。ようは誰からも何も強要されず、ある程度自由に振る舞い、なにか間違いを起こしても、「外国人だから」ということで許容されてしまう。

十分に議論されないまま安保は可決され、国会は阿鼻叫喚となり、訳のわからないまま今までとどこか違うところへ国が向かっているようにも感じる。日本の問題は与党も野党も信用ならず、国民全体が政治不信になっているあいだに、結局のところ既得権が得する方へと国全体が向かってしまうことのなのかもしれない。

ベトナム戦争の経験ばかり書いているアメリカ人の作家ティム・オブライエンは「自分にとっての戦争は実際の戦争であるベトナム戦争だったが、多くの人にとっての戦争は日常生活にあり、戦争はいたるところで起こっている」と語っている。

本当に大きな戦争が起きるのは、きっと我々がその個々の戦争に負けてしまった時なのだろう。

もっと言いたいことを言って、やりたいことをやり、多少間違えを犯してもそれを許容できれば、何も国会でそんなにドラマティックな場面を繰り広げる必要はなかったのかもしれない。

きっと僕たちが個々の戦争に負けたからかもしれない。 でも、まだまだ戦いは続くし、自分たちが死んでも次の世代も、その次の世代も戦いを続けないといけない。

歴史の必然として戦いに負け続けたら国は滅びる。 そうならないために、今できることを個々が行っていく必要があるのだろう。