Keep My Word

旅とタンゴをこよなく愛する。カラダナオル創業者。

永遠と横道世之介

相変わらずタンゴを踊ったり、中国語を習ったり、週1回は温泉にドライブしたりと忙しい。もちろん、施術もして、オンラインスクールも運営はしている。さらに先日は、アマゾンで売っているメキシコのお酒の梱包をして、アマゾンに納品している。

(まあ、しかし時間の8割方は趣味に費やしているのは否めないが・・・・)

 

 

それでも読書欲は止まらず、「永遠と横道世之介」を読了してしまった。

 

 

堂々の完結編である。涙なしでは読めない名作である。第1作は2009年に刊行されているので、足掛け14年かかっての完結編である。下巻の途中でなんとなく終わり方が見えてきてはいたが、それでもやはり「世之介はこうだよな。」となる。

 

吉田修一という作家は、どこまでも映像的な作家だなと思う。映画のように、どの作品も文字を通して、映画のように映像が喚起されて、その世界にうっかり入り込んでしまう。

 

特に世之介のように、肩の力を抜いて書いた作品は特にそうだ。

(でも、これは武道と一緒で力を抜いた時に、本来のポテンシャルを最大限発揮できる、という技術なので、渾身の力を込めて書いた作品であることは間違いない。)

 

どこにでもいるようでいて、絶対にいない存在、それが横道世之介だ。

 

世の中にちびまる子ちゃんサザエさんのような存在が中々いないように、世之介も存在しえない。だが、隣の玄関のチャイムを鳴らせば、「はいよ!」と出てきそうなくらい身近な存在が、世之介だ。

 

カラダナオル研修会では、一時期、「世之介こそが、目指すべき姿!」と連呼していたが、その気持ちは今でも変わらない。(読まないと、その真意は伝わらないので、ロールモデルとしては正直、どうかとは思っている。)

 

完結編を読むと不思議と、まるで世之介と実際過ごした時間が実在するように感じられる。きっと、人間の原風景にどこにでも点在しているような時間がそこには流れている。もちろん、それは幻想で実際にはそれは存在しない。

 

存在しないと分かってはいても、それでもやはり自分自身の手でそういう時間を創出できたら、それはとても幸せなことだと思う。誰か他の人のために費やす時間はみんなが持っているのだろうから。

 

それが吉田修一の理想とした世界なのだろう。